July 16, 2008
2泊3日中米素通りバスの旅
中米(パナマ〜グァテマラ間)は基本的な治安の悪さに加え、これといった見所もない為か、素通りしてしまう旅行者が多い。
しかし、そこには世界的にも良い波がたつことで有名なコスタリカが含まれている。せっかくだからちょっくら寄り道して波に乗っていきたいところ、、、
ポイントを調べてみるとちょっと面倒な位置にある、、、しかも、行ったからって確実にボードがレンタル出来るとも限らないし、時間的にもそんなに余裕があるわけじゃない、、、
そんな理由からここでの波乗りはお預けという事になり、なるべく早いとこグァテマラへまで抜けようということになった。
(まぁメキシコまで行けばまた有名なポイントがあるし・・・)
パナマシティーのバスターミナルで、パナマシティー(パナマ)〜サンホセ(コスタリカ)〜エルサルバドル(サンサルバドル)〜グァテマラシティー(グァテマラ)というルートのチケットを通しで購入した。
パナマからグアテマラまで抜けるバスではこれが最短ルートのようだったが、それでも乗り継ぎ2回のトータル2泊3日もかかるロングドライブだ。

当日、チェックインを済ましバスに乗り込んのは午前10時30分。あいにくフットレストまではついてなかったが、ブランケットや枕が用意された快適なバスだった。
しかし、一日に何度も国境を出たり入ったりするというのはかなり面倒。。。
途中一つ一つ荷物を犬に嗅がせる場面があったかと思えば、単に係官の手際が悪いだけの時もあったりし、外でダラダラ待たされるというようなことが頻繁に起きる、、、
それにしても陸路の国境っていうのは何故こうも退廃的な雰囲気のとこが多いのか?今までも国境の町にはあまり良い印象を受けてきていない・・・。
二泊のうち一泊は車中で、もう一泊は乗り継ぎ時間の関係上バス会社のオフィスに併設された安宿で5時間ほど仮眠したが、それ以外の時間は殆どず〜っとバスに揺られっぱなしだ、、、
でも1年半も旅をしてれば、バスでの過ごし方なんていうのはお手のモノ。。。
それがかなりの長時間だろうと、よほど酷いバスじゃない限りさほど苦痛は感じなくなってしまった。。。
それもこれも、「バスに乗った途端眠くなる」という便利な特異体質が身についたお陰か、、、
二人してほぼ時間に関係なくバスに乗った途端に眠くなり、その後も不思議といくらでも寝てられちゃうから、20〜30時間の移動でも案外あっさり着くことが多くなった。
これは一見ムダなようだけど、実は結構使える体質だったりする。。。。。
旅の出初めの頃がそうだったように、移動中に充分寝れないと疲れがたまることが多く、ヒドい時は丸一日ぐらい何も出来ないなんてこともよくあるからだ。
パナマから2泊3日かけて乗り継いできたバスも、ようやくグァテマラの首都「グァテマラシティ」へと到着した。
でもココではまだ荷物は降ろせなかった。このグァテマラシティーもその他の中米の国の首都同様、非常に治安が悪いという話だからだ・・・。
その為バスが到着した首都には泊まらずに、そこから1時間ほど離れたアンティグアという町まで,もうひと踏ん張りしたのだった、、、
(この移動はさすがにこたえた・・・)


(写真)この辺りは治安が悪いというのも頷ける。首都だというのに街はさびれて人影もまばらだし、信号待ちしてる車に寄ってくる物乞いや道端にはホームレスらしき人の姿も多い。
July 12, 2008
華僑とパナマ
パナマという国は意外にも物価が安い、、、
食料品や電化製品などもかなり安いのだが、とりわけ衣料品にかんしては思わずうなってしまうほど安かった。
Tシャツ一枚2〜3ドルぐらいから、パンツでも4〜5ドルも出せばけっこうマトモなのが買えちゃうのだ、、、
種類も半端じゃな多くて品揃えも豊富だし、手にとってみると質もわりとしっかりしていて少なくともそんな値段には見えない。。。
一方、ショッピングモール内の立派な店舗にもかかわらず、明らかなパチ物をお構いなしに堂々と扱ってたりもしている、、、
「いったい何処でこんなに安く大量に作ってんだ・・?」
思わず気になってタグを見てみたら、そこには見慣れた文字で「made in China」と書いてあった。
話によると、ここパナマという国では華僑(中国系移民)の人達が相当な力を握ってるらしい。
この大型ショッピングモール内でも、店舗数や売り場面積などを考えると、相当な幅をきかせているのが容易に見てとれる。
この圧倒的な品数の多さとダントツの安さは、商工業を基盤に一国の経済にさえ影響を与えてしまう、華僑のネットワークだからこそなせる技なんだろう、、、
確かに町中では中国人らしき姿を多く見かけたけど、同時に地元の人はそんな状況をあまり良く思ってないとの噂もある、、、
目まいがするほど膨大に積まれた服の山を唖然と眺めながらそんな想いにふけってたら、何だか末恐ろしい気分になった。。。
これぞ大量消費、大量廃棄の良い例だ、この状態が世界中で普通になってしまったらきっと世も末だろう、、、、、
そんな流れからでもないが、晩飯は近くの中華料理屋に行ってみることになった。。。(ナンだそりゃ、、、)

(写真上)前述した大型ショッピングモール。

(写真上)パナマシティーで泊まった宿の近所の様子。
July 11, 2008
南米から中米へ
南米から中米へと移動するには、コロンビアとパナマ間の陸路国境が開放されてない為に、飛行機か船を使うしかない。
コロンビアからパナマまでは飛行機で飛ぶとたった1時間の距離だが、船(というかヨット)で向かうとなんと1週間近くもかかる。
しかし、そこはほまれ高いカリブ海!経験者にいわせると「あんな綺麗な所を1時間そこらで移動しちゃうのは本当にモッタイナイって〜!」という話だった。
けど、うちらは先を急いでたのとゆりが船酔いするということもあって、、、 「カリブの海でヨットクルーズ」という魅惑的な響きには魅了されつつも、安価で時間も掛からない飛行機での移動を選択したのだった。
その日はコロンビアのカルタヘナにある空港から小型飛行機に乗りパナマシティーへと飛ぶ予定だったのだが、その朝ついにやらかしてしまった、、、、、
うっかり寝坊・・・・・。
目が覚めたのは午前8時過ぎ・・・。
この時点で離陸までたったの1時間しかない、、、
「エッ、、、っていうかナンで目覚まし鳴ってないの????」
寝起きの頭じゃ何がどうなってあと1時間なのかさっぱり理解できなかったけど、とにかく飛び起きて猛ダッシュでパッキングを済ませ、その辺のタクシーを捕まえて飛び乗った。
時間がないことをドライバーに告げると、その慌て振りを察してかなりの勢いで空港までカッ飛ばしてくれた。。。
そのおかげでチェックインカウンターに着いたのは離陸35分前、、、
しかしそこに人影は見えず、受付もすでに終了してしまっているようだった・・・。
とりあえず中にいたスタッフに駄目もとで頼み込むと、初めは渋い顔して「もう間に合わないよ、、、」といって断られたが、「そこをなんとか・・・」と必死に拝み倒したら何とか手続きを初めてくれた。
出国の手続きや荷物のチェックなどもスタッフの計らいで簡単に済ませてもらい、何とか間一髪のギリギリで飛行機に搭乗させてもらうことが出来た。。。(汗汗)
目覚めた瞬間からあまりにもドタバタし過ぎてたせいで、焦る余裕すらあんまりなかったけど、それでもうちらを乗せた飛行機は予定どおり約1時間30分後にはパナマシティーへ到着したのだった。
旅をしてて、飛行機の時間ほど差し迫った緊迫を有するものは他にはない・・・。
それにしてもコロンビアの人は、この時のタクシーにしろ空港スタッフにしろ、最後の最後まで感じの良い人が多かったなぁ☆

July 10, 2008
コロンビアのイメージ
みなさんはコロンビアと聞いて何をイメージしますか・・・!?
やっぱり、、、、、
麻薬やマフィア?
それとも、、、、、
コーヒー?
もしくは、、、、、、
アウトドアブランド?(笑)
映画の影響も手伝ってか、きっと大部分の人にはコロンビアという響きに対していかにも危なげな感じの印象がつきまとってると思う、、、
うちらにしても、そんな印象からコロンビアにはちょっと腰がひけてたんだけど、実際行ってみたらなんてことはない、そんな勝手なイメージはすぐにふき飛んでしまった。。。
それどころか、今まで回った南米の中でもトップクラスに人の優しさが記憶に残る「印象の良かった国」のひとつとなってしまったほど☆
道を尋ねてスペイン語が分からなくても嫌な顔ひとつせず親切に応対してくれる人が多かったし、食堂でも宿でもスーパーでも、とにかく献身的で感じの良い人がゴロゴロしてるのだ。
おまけに「美人」もゴロゴロ。。。。。(惚)
世間には「コロンビア美人」という言葉が存在するぐらい、コロンビアは美人が多い国という側面も持っている、、、
まぁ昔はイメージ通りの時代もあったんだろうけど、今となってはその分警察がしっかりしてそうにも見えたし、地元の人達はまるで僕らのそんなイメージを払拭したいかのごとく、とても献身的にうちら外国人の相手をしてくれた。
それに、これらの印象はうちらに限って受けたわけでもないみたいで、コロンビアに行ったことがある人に聞いてみると、大概の人が口を揃えてうちらと同じような感想をもらしている。
あぶないあぶない、、、うっかりコロンビアっていう国を、マンガ「北斗の拳」に出てくるような荒廃しきった場所だろうと、行かず終いで片してしまうトコだった・・・。
こんな献身的な人達と美人が多い国を、勝手なイメージだけに捕らわれてパスしちゃうなんて何ともモッタイナイ話です。。。


「メデジン」の街はメトロも走ってるし、建築も近代的なものが多い。(写真上)
一方、カリブ海沿いに面した「カルタヘナ」の街はスペイン植民地時代の面影を色濃く残す。(写真下)





(写真上)南米で覚えた自家製タコライス!病み付きになるウマさ☆☆☆
July 04, 2008
赤道直下エクアドル
エクアドルというのはスペイン語で“赤道”を意味する。
それがそのまま国の名前になってるというこの単純な国は、当たり前だけど本当に赤道直下に位置していた。
けど、僕らが思いえがく赤道直下のイメージとはやや様子が違い、四方をアンデス山脈の山々に囲まれて標高が高い為か、赤道付近は意外にも肌寒かった。

クエンカの町並。

クエンカの町にはスペイン植民地時代に建てられたコロニアル様式の建物が多く残る。その保存状態が良い為にこの町並みはユネスコ世界遺産の指定を受けている。

ボリビアに次いでインディヘナの割合が多いこの国では、町の至るところでインディヘナの姿を見かけることが出来た。

同じインディヘナでもエクアドルとボリビアに居るインディヘナの雰囲気は微妙に違う。どちらかと言うと、エクアドルのインディヘナのほうが微妙に洗練されている・・・!?。

市場で食べたペスカードフリット(魚フライ)定食。南米の定食はだいたい何処もメインの他に大きなスープが付いてくるのでボリューム満点☆

首都のキトにある宿「スクレ」のテラスから見下ろしたサンフランシスコ広場の様子。日本人宿として有名なスクレは、実は連れ込み宿だとか盗難が発生するだとか言われつつも、とにかく安い(1部屋/1.5〜2USD)ので滞在者は後を絶えないようだ。


キトの旧市街は端正に整った町並みとは裏腹に、けっこうな勢いで治安が悪い。うちらの周りでも同宿のカップルがバイクに乗った二人組みに無理やりバッグをひったくられるという事件が発生した。。。

赤道記念館にて、お決まりの赤道をまたいで記念撮影。しかしこの赤道、せっかくこんなに立派な建物まで建てたにもかかわらず、近年になってGPSで計測しなおしたら250mもずれていたらしい。。。(アチャ〜、、、)

赤道記念館の上から見下ろした赤道記念公園の様子。
☆おまけ☆

クエンカの宿にて、おもむろに開けた机の引き出しの中に、、、(写真上)
このとき、丁度ちょっとしたことに要らない不満を感じてた矢先だったので、その答えとも思えるこのメッセージがいきなり飛び込んできたので驚いた・・・。
June 26, 2008
リマ〜プカルパ
イキトスでアマゾンを満喫した後、再び首都のリマに戻ってきた。
しかし、この帰りの飛行機では久々に散々な目にあった・・・。
当日、チェックインをしようと空港カウンターに向かうも、うちらが乗る予定の「アエロコンドル」のカウンターは見あたらず、、、
不思議に思い他のカウンターに聞いてみると「その会社は問題が起きたからとりあえず町にあるオフィスへ行け」と言われ、、、
そこでは“燃料の価格高騰”を理由にしばらく全フライトが欠航になったが、代替便やチケットの払い戻しはここでは対応出来ないと告げられ、、、
その後いくら抗議してもラチがあかず、最後は他の航空会社の高いチケットを自分で買いなおし、翌日ようやくリマに戻ってこれたという始末・・・。
その数日後、返金処理の為にわざわざ指定されたセンターオフィスまで出向き数時間にわたる押し問答をくり返したが、最終的には「ウチにはもう金がないんだ!」なんていうあり得ない理由で開き直られ、乗れなかった飛行機のチケット代金すら返してくれないという酷いあり様だった。。。
うちらにしても世の中こんな理不尽な事がまかり通ってしまうものなのかと悔しくて悔しくて仕方なかったが、旅先でのこれ以上の労力を考えるともう諦めて泣き寝入りするしかないかとも思われた、、、
そして最後の最後に、同宿の人にアドバイスされダメもとでチケットを購入したクレジットカード会社へ引き落としの停止処理をしてもらえないかと電話をしてみた。
すると、幸いこの場合は「カードで購入したにも関わらず商品を受け取っていない」というケースにあたるらしく、先方が非を認めればチケットの代金だけはカードに付帯してる保険で対応出来るという事になった。。。
最低限チケットの代金だけは戻ってきたのでうちらとしてもどうにか気が済んだけど、それにしてもホントーにフザけた対応だった、、、
ネット上ではこれ以上は書かないけど、とにかくうちらはもう二度とこんな会社に大事な命は預けません・・・!!!(怒)
それに比べ日本の会社は本当に優秀だった。。。。。
本人が数日掛かりであちこち動いたって解決しなかった問題が、海外からの電話一本と代理人の書類記入だけで、その数日後にはキッチリ処理が済んじゃってるんだから、、、(スバラシイ)
【リマ】

リマ旧市街を走るラ・ウニオン通りの様子。旧市街にある賑やかな繁華街のこの通りは常に歩行者天国になっており、両脇にはお洒落な商店やレストランが数十件にわたって軒を連ねる。週末には地元の人達でごったがえすが、残念ながら治安があまり良くない。リマでは二人連れのカップルでも昼間っから強盗や引ったくりに襲われるという話をよく聞いた。。。

リマ旧市街にある中華街。リマ滞在中は毎日のようにココの世話になった。。。日本円で2〜300円もあれば中華風チャーハンや焼きそばなどが腹いっぱい食べられる(でも味はそこそこ・・・)。何処の店も大して変わりばえしないメニューだけど、中には沖縄の「ソーキそば」そっくりのうどんを出す店なんかもあってコレには感激だった☆


リマの旧市街から30分ぐらい歩いたビルの一画に、DVDのコピー天国があった。広いフロアーにはコピーDVDを扱った店がずら〜っと並んでいる。店毎によって扱ってるジャンルが違うのだが、中でも日本のアニメの品揃えがハンパじゃない!!ジャンプ・マガジン系はもちろん、少女系のオタク物から見たこともないマニアックなヤツまでもう何でもと言っていいほどかなり幅広く揃う。うちらもここでジブリ作品をまとめて購入した。10本ぐらいまとめて買えば箱付きで1本80円ぐらいだった。日本の作品であれば音声を切り替えれば日本語でも視聴が可能。映画DVD以外にも世界中の音楽CDやパソコンソフトまで、とにかくありとあらゆるものがコピーされて売られている。この国では著作権なんてあってないようなもの・・・!?
インカコーラはペルーを代表する飲み物。ネーミングはどう考えてもコカコーラのパクリ!?だけど、意外にもペルーでは立派に市民権を得ている。色は奇抜だけど、味はメロンソーダみたいな感じでこれといって驚くほどのモノでもない。。。土産屋ではこのロゴが入ったTシャツが売られていてうちらもついつい購入してしまった。その横のチョコレートはマチュピチュのデザインに惚れて買ってみたのは良いけど、料理用だったのかそのままじゃ苦くて食べれたもんじゃなかった・・・。
【プカルパ】
リマを後にしたうちらは、バスで20時間ほど行ったヤリナコチャという片田舎の村へ向かった。そこはアマゾンの先住民シピポ族が多く住むエリアで、昔ながらのシャーマンによるアワヤスカという幻覚性の植物を使った儀式でも有名な場所。

ここもイキトス同様、熱帯の植物の間を大量のオートリクシャーがけたたましいエンジン音を轟かせながら行き交い、まるで東南アジアで見るような熱っぽい雰囲気を醸し出している。

滞在中、たまたま年に一度ある村の祭りが開催された。このようなステージが至るところで組まれいくつものバンドがライブしてたが、どのステージにも腰振りダンサーの存在は欠かせないらしく、うちらには「伝統衣装+セクシー腰振り」というノリが、イマイチよく分からなかった・・・(苦笑)


ここでよく食べていたのが、写真右上のバナナの葉にお米と鶏肉を包んで蒸した地元の定番料理。見た目はともかく、味付けは軽くスパイスが効いているぐらいなので日本人の舌にも違和感なく合う。隣に添えてある焼きバナナが意外にも結構イケた☆

「アナコンダビジョン」という独特の柄が刺繍された民族衣装(スカートの方)。聞くところによると、これはアワヤスカを飲んだときに見えるビジョンを柄にしたものらしく、主に族の女性達が一つ一つハンドメイドで刺繍しているとのこと。非常に細かい仕事なので、よく見ると作る人によって出来はマチマチなのだが、他では見ることがない独特な色使いと柄に惚れてしまい、うちらも2枚ほど購入した。

(ペルーの次はエクアドルへ)
June 13, 2008
アマゾンという宝
ペルーの首都リマから飛行機に乗り「イキトス」というアマゾン川にほど近い町へとやってきた。わざわざ飛行機を使ってまでココに来た理由はもちろん、、、
“ アマゾンのジャングル!!! ”
アマゾン川というと、どうしてもブラジルのほうが有名な感じがするけど、実はペルーも国土の半分はアマゾンの熱帯雨林が占めているのだ。しかも、アマゾン川の源流はペルーのアンデス山脈にあるらしい。。。
ブラジルでは予想外に物価が高すぎてアマゾンまでは足をのばすことが出来なかったが、その代わりここペルーでは絶対に行こうと決めていた。
イキトスの空港を降りた途端に、ジットリ肌にまとわりつくような湿気を帯びた空気と、けたたましいエンジン音を撒き散らすバイクリクシャーの喧騒が襲ってきた、、、、

こんなに大量のバイクリクシャーを見たのは南米に入ってから初めて、、その喧騒はまるでアジアのようでもあり不思議と懐かしさを覚えた。(写真上左) 町の印象としては、船か飛行機でしか行けないほどジャングルの奥地にあるというわりには思いのほか都市に感じた、、、(写真上右)
どうやら19世紀初頭に起きた天然ゴムブームが小さな村からだったこの町に富をもたらしたようで、別名「陸路では行けない世界最大の町」とも言われている。
イキトスの町自体にはこれといった見所があるわけじゃないけど、市場では色んなものが売られているのでアマゾンに暮らす人々の食生活を覗くことが出来た。
(写真左)ベレン地区の市場にて。この辺りではカメを食べる習慣があるらしいのだが、それにしてもこのデカさはエグイ・・・。
(写真右)他にもアマゾン川で採れたピラニアや巨大なナマズなど、様々な魚が軒先に並んでいた。
アマゾンへのはやる気持ちを抑え、まずは町にいくつかあるツアーエージェントを回り、その中で一番フィーリングが合ったトコで3泊4日のジャングルツアーを組んだ。
その翌日、エージェントが所有するロッジまでリクシャーとバスとボートを乗り継ぎ、百数十キロの道のりを半日以上かけて向かった。ジャングルの奥に入れば入るほど次第に川幅が狭くなり、日本じゃ見たこともないようなキテレツな動植物達が周囲を取り囲む。

アマゾン滞在中は、そのロッジを拠点に付近のジャングルを歩いて探索したり、川で釣りをしたり、先住民の住む村を訪れたりして過ごした。ガイドについた「ニルトン(写真下左)」は、さすがアマゾン育ちというだけあって自然に関しての知識が半端じゃない・・・。

一緒にジャングルを歩いてると、「これはお腹が痛いときに煎じて飲むと良い」とか、「これは切り傷に塗ると良い」とか、「喉が渇いたらこの木を切れば水が飲める(写真上右)」とか、次から次へと生きた知恵が出てくるのだ。
それにしても病気に効く野生の植物がこれだけ多いとは思わなかった。アマゾンのジャングルは生き物の宝庫であると同時にまた薬の宝庫でもあった、、、

ガイドは朽ちた木の中からイモ虫をホジクリ出し、おもむろに口へパクッ・・・。それを見ていたゆりが勇敢にもチャレンジした!!このイモ虫はアマゾンでは重要な蛋白源で栄養も豊富だそう・・・(でも俺にはムリ。。。)

ロッジで飼っていた二匹のサル「ドクトル(写真左)」と「カプチーノ(写真右)」は、とても人懐っこくてメチャクチャ可愛い。。。どちらもジャングルで拾われたそうだが、サルと遊ぶのがこんなに楽しいとは思ってもなかった・・・。あぁ連れて還りたい。。。

(写真左)ロッジに猛毒のタランチュラが出現!!
(写真右)日が暮れてからはワニ探しにも出掛けた。夜の川を3時間も徘徊してようやく見つけたのは30cmほどの赤ちゃんワニ一匹、、、成長すると3mぐらいになるらしいから、そんなの逆に見つからなくて良かった。。。
俄然ピラニヤ釣るつもりで張り切ったけど、実際釣れたのはこんなちっちゃいの。。。それでもちゃんとこの日の晩の食卓を飾った。骨が多かったけどなかなか美味☆

先住民が暮らすいくつかの村にも訪れた。同じペルーでも海沿いのエリアとアンデス山脈と内陸のアマゾンでは、気候が違うために生活スタイルも全く異なる。可愛らしいピンクの高床式の家は病院(写真上左下)。村には簡素だがDISCOまであるのには笑えた。。。(写真上右下)
ここアマゾンのジャングルでは、「世界で最も豊かな生態系をもつ」といわれてる通り、本当に数え切れないほどの多種多様な生き物達が完璧な相互扶助のサイクルの中でバランスをとって共存してる姿を、ありありと感じ取ることが出来た。

違法伐採による森林破壊や温暖化の問題などでもよく取り沙汰されるアマゾンだけど、実際どの程度破壊されてしまったのか内心気にはなっていた。けど、うちらが訪れたエリアに関してだけ言えば、素人目にだけどその兆候は殆ど感じとれなかったのでひとまずは安心した、、、
しかし、ブラジル側などの他のエリアでは大規模な森林破壊が進んでいるのは紛れもない事実だし、地球規模のこの問題には依然気が抜けないのは確かだろう。
自分たちが普段当たり前のように吸ってる酸素だって、もとをただせば1/4はここアマゾンの熱帯雨林おかげ。いうなれば僕らの命の1/4はこの森によって生かされているのだ。
にも関わらず、この森林を破壊してるのは日本も含めた先進国基準の経済システムのせいだったり、後先考えないで目先の豊かさだけを追い求めてるせいだったり。。。(悲)
一説には地球上の森林はこのままいくと、あと100年しかもたないとまで言われている。人生そんなに生きるワケじゃないから自分さえ良ければそれで良いのか・・?でも将来の子供達には一体どんな顔して説明するつもりなのか・・?
今の自分に出来るコトといえば、「マイ箸」や「エコバッグ」とかぐらいしか思いつかないけど、個人レベルで出来る範囲のコトから実際の行動に移していくのが最も現実的な策とともに、これからの環境を守るうえで最も効果的な鍵になるとも信じている。
と同時に、そんな身勝手な僕らを文句の一つも言わずひたむきに支え続けてくれている木々達に、少なからず「感謝」の気持ちぐらいは日々忘れずに持ち続けていたいとも思う・・・。
アマゾンの自然は人類にとって、というよりこの星に住むものにとって、紛れも無い「宝」なんだということを改めて感じさせてくれた体験となりました。。。


(写真上左)夜明け直後の朝靄に包まれる幻想的なアマゾンの風景。
(写真上右)雨上がりの上空に、突如二重に重なった珍しい虹が出現した。
(写真下左)イキトスの町のすぐ裏手には、見渡す限り続く広大なジャングルが広がる。
(写真下右)この地方名物の「セビッチェ」という生魚を使った料理。コレに当たる旅行者は多い・・・。
May 26, 2008
マチュピチュ遺跡
当日、朝5時にマチュピチュの拠点アグアスカリエンテスの町を出発。余分な荷物はホテルで預かってもらい、まだ暗く小雨もパラつくなか低公害の専用バスで遺跡まで向かう。
着いてすぐ2時間ほど現地ガイドの説明がついたが、ぶっちゃけ眠過ぎてそれどころじゃなかった。。。(苦笑)
しかも、空が明るくなってからも依然あたりを厚い雲と霧が覆い、マチュピチュ遺跡はまるでもったいぶってるかのように、なかなかその全貌を露にはしてくれなかった・・・。(写真下)
ガイドの説明が終わると同時に、うちらは急いでマチュピチュの全景が見下ろせるポイント「ワイナピチュ山」へと登った。頂までは30分ほどで着いたが、そこでも厚い雲がなかなか取れずしばらく待機。
結局1時間近く待っても完全に雲がとれる事はなかったが、雲の合間から遺跡の全景が見渡せるタイミングは何度か訪れたのでひとまず御の字ということに・・・。(写真下)
15世紀にインカ帝国が築き上げたといわれるこの都市は、標高2400メートルの断崖絶壁の上にあり、麓からは全く見ることができないという特殊な立地にあるため、またの名を「空中都市」ともいわれている。
16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人さえもこの都市には気付かず、その後400年以上にわたって人の目に触れることもなくその存在は世間に知られていなかったそうだ。
1911年になってようやくアメリカ人の歴史家によって発見されたそうだが、コレが一体なんのための都市だったのか?という点については今だ謎が多いとのこと、、、
この日はうちらにしては珍しくだいぶゆっくり回ったけど、それでも午後2時ぐらいには大体見尽くしてしまいこの遺跡を後にした。
今回の感想としては、、、
世界的にもかなり有名な遺跡だけに、求めずともその存在を写真や映像などで幾度となく目にしてきたマチュピチュ。
そのせいか、なかば“凄くて当然”という捉え方をしてしまってた部分も少なからずあり、うちらの感想としては「期待以上の感動は得られなかった」というのが正直な所。。。
確かにロケーション自体は切り立った山のとんでもない場所にあるので感動には値するんだけど、でも仮にこの遺跡が他の場所にあったとしたら案外どうってことないって思っちゃいそうな気もした。。。
インカ帝国時代の遺跡はこのマチュピチュ以外にもいくつか回ったけど、基本的に石組みだけの飾り気のないモノが多いので、よほど思い入れがない限りはすぐに飽きてしまうというのがうちらの印象だ、、、
まぁ世界に名だたる天下の世界遺産マチュピチュには失礼な話だけど、あくまで一旅行者の個人的主観ということで・・・。
でも、マチュピチュに向かうまでの道のり(マンテンバイク&インカ道トレッキング)は、ちょっと大変だったけどその分雄大な山あり川あり温泉ありでとても満足出来たので取り合えず思い残すコトは無いです☆
(遺跡にはもう飽きがきてるという噂も・・・)
May 25, 2008
マチュピチュまでの道のり
世界的に有名な世界遺産「マチュピチュ遺跡」までは、通常クスコからバスと電車を乗り継いで行くのが普通だけど、あえてうちらはマウンテンバイクとトレッキングを交えたほぼ“自力”で向うことにした。
そのトレッキングで辿るルートも、インカ帝国時代実際に使われていた道が今なお残る「インカ道」なるもので、それを辿ってけば少しは当時の人の気分が味わえるんじゃないか、、、というもくろみもあった。
【一日目】
7時30分ホテルにツアー会社のスタッフが迎えにきて、その後すぐツアーで一緒になるメンバーと合流した。
陽気なスペイン人のおっちゃん2人にその友達の女性マリナ。そしてアメリカで出会ったというインド人とペルー人(ナタリー)の珍しいカップルに、うちらを合わせた計7人が今回のメンバー。
マウンテンバイクのスタート地点となる場所までは車で向かったのだが、付近は標高4200〜4300mもある高い山々で、着いたときは数m先の視界すらままならないほどの濃い霧が辺りにたちこめていた。。。(写真下左)
そこでお揃いのヘルメットとユニフォームを着用し、頑強なマウンテンバイクに跨がり猛スピードで山道を下った、、、
前半はほとんどが舗装された道路の下りだから楽だったけど、後半は平坦な砂利道が続いたので結構シンドかった。。。
山頂付近では寒さに手がかじかむ程だったのが、麓では体力のいる砂利道とあいまって全身から汗が吹き出してくるほど暑くなった・・・(写真下右)。
【二日目】
朝6時に集合し、パンケーキとコーヒーの朝食をとってから出発。前半の2時間ぐらいは今回のトレッキングの中で一番ハードだと思われる登りのエリアが続く。
(写真上左)この辺りでは染料に使われるという木の実でフェイスペインティングを施してからしてからトレッキング開始。
(写真下左)ここからがインカ道始まりのサイン
(写真下右)急な斜面に沿って緑々と生い茂ってるのはコカの葉畑。
(写真上)何とも頼りないロープとゴンドラに揺られ急流を渡るシーンも、、、
途中、頻繁に休憩をとってくれたおかげでこの日はわりとのんびりペースで歩けた。ちょうど年配のおっちゃんが2人混じっててくれたのが幸いした。。。
(写真上)途中立ち寄った茶屋で飼われていたサルとアナグマ!?
夕方4時ぐらいにはサンタマリアという町に到着し、皆でさっそく名物の温泉に飛び込んだ。。。(写真下左)
2日ぶりにキレイに頭と身体を洗い気分サッパリ。。。湯加減もナカナカだったけど、そのあと飲んだ湯上がりのビールもこれまたナカナカでした。。。
晩飯後、ガイドの誘いにより地元のDISCOのへみんなで行くことになった。不気味なぐらい薄暗い掘っ立て小屋で、唯一照明のランプだけが赤や青にチカチカ光ってるだけの、まるでお化け屋敷みたいにチープなトコだった。。。
それでも、みんな大いに飲んでハシャいでと、とても楽しい時間を過ごした(写真上右)。うちらは適当なところで部屋に先に戻ったが、みんなはこの後3時ぐらいまで飲んでたそうだ・・・。
【3日目】
今日は昨日より2時間遅い8時30分の集合。今日も朝飯にパンケーキとコーヒーを頂いてから出発。
今日の行程はトータル6時間。午前中は山道の続きだったが、午後からは砂利敷きの歩きづらい線路沿いをひたすら歩いた。
(写真上段右)周辺の畑ではコーヒー豆の栽培も盛ん。
(写真中断左)1時間に一本ぐらい鉄道が通るのでひかれないように挨拶。
(写真下段左)途中、滝にも寄ったが流れる水は驚くほど冷たい。
(写真下段右)アグアスカリエンテスの町並み。
夕方、ようやくアグアスカリエンテスというマチュピチュ遺跡の麓にある町に到着。
この町はマチュピチュ遺跡の最寄りだけあってかなりツーリスティック。かなりの山奥にもかかわらず、場違いなほど凝ったホテルやレストランが乱立している。
最後に、、、
この周辺に生息する見たことも無い「蚊」のタチが悪いこと悪いこと、、、
後で分かったのだが、この時ガイドがモスキート(蚊)と呼んでいたコイツは、実は蚊ではなく「プリプリ」と言われるアブの一種のようだった。。。
刺された瞬間は結構な痛さで“チクッ”っとくるのだが、赤く腫れて酷いときは血まで出るわりにはカユミはさほど無い。
しかしそれで甘くみてると、2〜3日遅れの時間差で蚊の数倍は激しいと思われる強烈なカユミが襲ってくるのだ、、、
しかも、そのカユミは1〜2ヶ月もの長い間続き、カユミがひいた後も肌には数ヶ月にわたり痛々しい痕跡が残る・・・。
後にそんな悪夢が襲ってくるとは思いもせず、大した虫除け対策をしなかったせいで、二日目の時点で全身50ヶ所近くも刺されてしまった哀れな俺だったのでした、、、(写真下)
ちなみに、ゆりは多少の虫除け対策をしてたので俺ほどは刺されずに済みましたとさ。。。
(あ゜゜〜カユイ・・・・・)
May 21, 2008
インカ帝国の中心クスコ
ここ「クスコ」は1532年にスペイン軍の侵略を受けるまでは、インカ帝国の首都にあたる文化の中心だった所。
今でも至るところにインカ帝国時代の名残は残っていて、植民地後のコロニアルな建物の土台部分にインカ帝国時代の石組みが使われていたりと、特にその建築様式に異文化の融和がみられる。
左の写真に写る石組みに使われてる石は、通称「12角の石」と言われているモノ。
写真で見ても分かる通り、本当に角が12コもある。
これはインカ帝国時代に造られた石組みだそうだが、こんな巨大な一枚岩を機械も使わず削り上げ、それを「カミソリの歯一枚すら通さない」と言われるほど緻密に積みあげたんだっていうんだから、その技術と根気は素人目にみてもただ事じゃないのが判る、、、
滞在中、かなり大きな地元のお祭りが開催された。(写真下)
キリスト教にまつわる人物の人形を、大勢で御輿のようにして担ぎながら町を練り歩くのだが、それ以外にも土着の信仰と関係あると思われるヘンテコな被り物や民族衣装をまとったグループも多数出現した。
町の一角では大量の屋台が出てるエリアがあって、地元の人はそこで思い思いにお酒を飲みつつ食事を楽しんでいるのだが、よく見てみると何処で出されてるのも同じような料理だった。
これは「クイ」という大ねずみの丸焼きと、鳥やブタの内蔵やら海草と魚の卵?のような得たいの知れない数々の盛り合わせだそうだ。。。(写真下)
せっかくだからとうちらもトライしてみたけど、どれも独特の匂いとクセがあって、お世辞にもウマイといえるようなシロモノじゃなかった。。。
地元ではこれらの料理をこのお祭りの時に食べる習わしがあるとのことだったが、まぁ日本でいう正月のおせち料理みたいなものかと・・。
スペイン侵略後に造られたレトロなコロニアル調の建物と、インカ帝国時代からの民族文化が混然とミックスされた町並み。
それが、ウットリするほど趣があって、毎度町に出るたび「やっぱり良いな〜ウンウン・・・」と、頷いてしまうほどだった。。。
ここクスコは、特にゆりが完全にメロメロとなってしまったうちらお気に入りの印象深い町の一つとなりました。
(写真上)丘の上から眺めたクスコ市街の全景。背後の山の斜面に刻まれたEL PERUという文字が象徴的。
May 17, 2008
チチカカ湖で思う
ボリビアのコパカパーナからチチカカ湖を船で渡り、ペルー側の町プーノにやってきた。今回は、このプーノからボートに乗っかって、チチカカ湖に浮かぶいくつかの島を訪れた時の模様をお送りします。。。
このチチカカ湖というのは、ペルーとボリビア両国の間に挟まれた標高3800mに存在する淡水湖。富士山より高い位置にありながら大きさは琵琶湖の10倍の面積を誇る。
うちらを乗せたボートは、まず始めにウロス島を訪れた。 島に近づくと、色鮮やかな民族衣装をまとったインディヘナのおばちゃんたちがお出迎え。。。
ここに住んでる人達は、何世代も前からこの島で生活を営んできたというインカ時代からの民族の末裔だそうだ。
島といっても、このウロス島は大量の葦(あし)を敷き詰めて作られた「トトラ」と言われる人工の浮島で、実際は水面に浮いているだけの島。しかも、固定しているロープを外せば島ごとの移動も可能らしい。。。
「何でわざわざこんな不便なトコに住もうとしたワケ?」と思ったけど、どうやらスペイン占領時代の迫害や民族対立などが切っ掛けになってるようで、別に自ら好き好んで水上での生活を始めたワケじゃないらしい、、、(そりゃそうだ)
ここの人達は、うちら観光客が来ると一斉に手を振ったり歌を歌って迎えてくれるのだが、その動きや表情にはどこか「ワザとらしさ」が漂っていて、正直ツーリスティックな匂いがプンプン。。。
島には現在も数世帯の家族が住んではいるものの、見る限り観光業にドップリ依存してる頃向が強い。
こんな小さな浮島のうえでさえたくさんの土産売りが出ていて、その光景は、毎日出来るだけ多くの観光客が島に訪れてくれるのを心待ちにしているかのようだった。
(写真上左)島の歴史やトトラの作り方、何を食べて暮らしてるのかなどをミニチュアや実物を用いて詳しく解説してくれた。
(写真上右)島内には魚を養殖しているイケスなんかもある。
次に訪れたのはタキーレ島。ココは浮島ではなく普通の島。(写真下)
この島の男達はカラフルな民族衣装の帽子をこぞって被っている。刺繍が細かくて凝ってるからお土産に良いかなぁとも思ったけど、「でも、かぶる機会ないよね・・・!?」ってことに気づいて止めた。。。
それにしても、 この島はそんなに大きくない島にも関わらず子供の数が多いこと多いこと、、、
でもってタカってくるタカってくる、、、
けど実際問題、勝手な目線から見た可愛いとか可愛そうとかっていう理由だけで、大した意味もなくお金や物をあげちゃう外国人が多いってんだから、子供達がこういう状態になっちゃうのは無理もない。。。
それは一見すると富める立場からの愛情のようにも映るんだけど、一歩間違えたら単に与える側のエゴを満たすだけの浅はかな行為にもなりえる、、、
よく言われるのが「楽に金銭を得る手段としての物乞いが当たり前になるとマジメに働く意欲がそがれる」という人間のサガ・・・。
与える側がいくら子供達の為と疑わずとも、そこをクリア出来ない以上はそれこそ「いくらネダられても無償ではお金を与えない」という選択のほうが、その子にとっては本当の意味で必要な判断なんじゃないかと思う。
楽にお金を稼ぐ物乞いという手段がクセになってしまえば、ゆくゆくは演技してでも嘘をついてでも物乞いを続けることだっていとわなくなるだろうし、終いには人間性にまで悪い影響を与えかねないだろうし、、、
それに、どうしてもその子達を救いたいと思うのであれば、無理に直接金銭を渡さなくたって、信用できる団体や関係施設なりを通して、いくらでも別な形で援助が出来るワケだし、、、
これは個々人の想いや状況などによっても例外はあるだろうから一概には言及出来ない問題だとは思うけど、だからといって安易に金銭を与えてしまうような観光客が、何百人、何千人とそこを訪れたら、その地域へ多大な影響を及ぼしてしまうというのも明らかな事実なのだ。
これは土産屋などにしても同じことが言えると思うけど、あまりにも有名になり過ぎてしまった観光地ではよくこの種の悪影響が目立っていて、 そんな現場を幾度となく目の当たりにしてきた立場からすると、やっぱり軽視出来ない問題のように思う。
自分もそんな偉そうなことを言えた立場じゃないけど、これまで実際に軽はずみな旅行者をそれだけたくさん見てきたからこそ、そこには海外を旅行をする者の最低限のマナーとして注意深く気を配る必要があると感じている。
そんなワケで僕らはいつの日からか、経済状態や生活風習が違う他国に足を踏み入れるという立場で在る以上、現地の人に対して「お金」という手段だけに頼った一方的な援助とかお礼などは止めにしようと心に決めてるのでした。。。
(これらは一般の人にはあまり関係のない問題ですけど、ボランティア活動の現場などにも通ずることのようなのでご参考までに・・・)
May 13, 2008
食とショッピングの都ラパス
「食とショッピングに走る!!!」
うちらのオススメとしてはコレに尽きる。。。
南米一安い物価に加え、ハイレベルな日本食屋に温もり溢れる民芸品の数々、、、
さらに、これも南米一と思われる広大な敷地を誇る青空マーケットの存在、、、
とまぁ、個人的にはこれらを極めるだけでもラパスでの滞在は十分有意義に過ごせるんじゃないかと思います。。。
まず、ココで挙げたハイレベルな日本食屋というのは、紛れもなく「ケンちゃん」と「ブルーベリーカフェ」のことを指している。
この2件、南米を旅する者の間では言わずと知れた存在なのだが、どちらもお世辞抜きにうまい!!イヤ〜本当にうまかったなぁぁ。。。
これは久々の日本食だからってワケじゃなくて、仮に家の近所にこの2件があったとしたら、「きっとちょくちょく通うんだろうな・・・」ってぐらいのレベル、、、
ケンちゃんは、ラーメンから丼物、定食系まで何でもござれといった感じで、基本的にどれを選んでもハズレは無い!!
値段のほうも内容の割にはだいぶ手頃で、写真左のような定食が日本円にして400円ぐらいから食べれちゃう。
久々に味わったてんぷらやとんかつなんて、専門店にも負けないぐらいのサックサクのジューシーでもう涙モノだった。。。
一方、ブルーベリーカフェでは何と言っても「テリヤキチキン」が絶品だった!!コレを初めて食べたときの衝撃ったらそれはもう、、、
店の外見は洒落たカフェのような佇まいなのだが、そこで出されるテリヤキさんはそんじょそこらのモノとはワケが違う、、、
正直、自分は後にも先にもこんなに美味いテリヤキさんには出会ったことがない・・・。
もちろんチキン自体も美味しいのだが、それ以上に味付けの塩梅が何とも絶妙なのだ。ソースの甘辛さが憎いほど日本人(俺)好みで、思わず皿に残った一滴まで舐め尽くしたくなるほど、、、(写真無くてスミマセン・・)
テリヤキチキンと一緒にライスとサラダ、食後にコーヒーまで付いてきて400円程度で済んでしまうという優しい値段設定も◎。
ここはテリヤキチキン以外にもカレーも評判良かったんだけど、うちらはテリヤキチキン以外に目もくれなかったので、結局その味を確かめることはなかった、、、
どちらも安宿が集まる旧市街からは歩いて40分近くも離れてたんだけど、そんな遠さをものともせず、この2件には滞在中いく度となく足を運んでしまった。。。
それ以外にも、前述した2軒よりはやや高いが「コリアンタウン」という韓国人経営の韓国料理店も旅人の間では結構好評だった。
うちらも一度だけ石焼きビビンバを食べに足を運んだけど、ココもなかなかの美味で捨て難かった。。。
他にも「アレキサンダーカフェ」のチーズケーキや、ローカルハンバーガーチェーンの「メガバーガー」や、道端で売られてるコロッケ(写真左)など、、、
ラパスの町にはこんな感じでウマいモノが目白押しだったので、食だけは日々事欠かくことがなかったのでした。。。
(この町、標高4000m近くもあるってのに我ながらよく食べた・・・)
ボリビアは南米の中で最もインディヘナの割合が高いというだけあって、ここラパスの町中でも、至るところで独特の民族衣装に身を包んだインディヘナの姿を目にすることが出来た。
女性の場合、年齢問わず長めに下ろした三つ編みにツバ付きのハットを被り、ズングリむっくりした身体を色とりどりのセーターとフリルのスカートで着飾ってる姿が乙女チックで何とも可愛らしい。。。(写真下)
それに比べて男性は対照的で、特にこれといった民族衣装をまとうわけでもなく、背丈は女性同様に低いが体型はどちらかというとスリムな人が多かったように思う。
お次は買い物!!旧市街を走る「サガルナガ通り」周辺は、道の両サイドに土産屋がびっしり軒を連ね、民族色豊かな民芸品の数々で溢れかえっている、、、
ナチュラルな風合いを活かした色とりどりの織物に、毛糸で編んだかわいらしい人形や革で作られた小物の数々、そしてアンデス発祥の音楽フォルクローレには欠かせない楽器「ケーニャ」や「サンポーニャ」を売る店などなど、、、
この近辺はまさに土産物を買うのにはうってつけの場所。さらに物価も安いときてるもんだから、うちらもここで土産をまとめ買いし日本へ郵送で送った。
さらに、そのサガルナガ通りから横に伸びた通りに、通称「魔女通り」と呼ばれる怪しい名の通りがある。
その一画に、リャマやアルパカ(ラクダの仲間)の胎児のミイラや(写真左)、如何わしい薬草のようなものから不思議な陶器製の人形など、、、
全くもって一体何に使うのかも分からないようなアイテムが所狭しと売られている怪しい呪術ショップがある。
ちなみにこの左の写真に写っている胎児のミイラは、家を新築する際に地面の下に埋めて家内安全を祈願するのに用いられるとのこと、、、
さすがに観光客でコレを買ってくような奇特な人はあまりいないと思うケド、どうせなら値段だけでも聞いておけばよかったなぁ。。。
その他にも、 ラパスの中心部からバスで30分ほど山の上へ行った所にあるエルアルト(写真左)では、毎週木・日曜日に大規模な青空市が開かれている。
ここでは広大な敷地の中、古着や身の回りの生活用品をメインに、車やバイクのパーツ、電化製品からCD、DVDまで、生活に関する物から関係ない物まで、ありとあらゆる物が売られている。
ここで売られている古着は、主にアメリカから流れてきたものが多く、殆どは買うに値しないようなものばかりなんだけど、注意深く探してみると中にはラルフローレン、カルバンクライン、パタゴニア、コロンビア、ノースフェイス、L.L.Beanなどの有名ブランドの服も結構紛れ込んでたりする。
この大量の古着の山の中から宝探し感覚でそれらを見つけ出し、格安で買いつけるというのが、一部の旅行者の間ではちょっとした楽しみの一つとなっていた。。。(もちろん自分もその一人)
それもそのはず、地元の人にとっちゃノースフェイスだろうがパタゴニアだろうが知ったこっちゃないので、ここで売られてる服はほぼブランドに関係なくビックリするほどの安価で買えてしまうからだ・・・。(フリースで2〜5$、ジャケットでも5〜8$程度)
しかし最近では、日本人がノースフェイスやパタゴニアばかりを狙って集中的に買い漁るので、それを知った店側もこれらのブランドにだけは高値を付けるケースが多くなってきたという、、、
古着とは言っても殆ど着てないような新品に近いものもかなり多く、これだけ大量の新品同様の服が、アメリカではもう必要ないモノとして手放されているということにも同様に驚かされた・・・。
でも、、、もったいないとかなんとか言いつつも、自分もちゃっかりパタゴニアやL.L.Beanのジャケットなどの日本で買ったら数万円はするだろうアイテムを、たtった数百円という激安価格にてゲットさせてもらった。。。(嬉)
お次は滞在中たまたま開催されたフェスティバルの模様をどうぞ、、、
このお祭りは、複数のチームが思い思いに工夫を凝らしたコスチュームとダンスを披露しながら通りを行進していくパレードのようなスタイル。どうやらこの一週間後が本当のメインらしかったんだけど、うちらが観た日でも十分なぐらい盛大なものだった。
特に通りを埋め尽くすほどの数のインディヘナの女性達が、この日の為に用意したきらびやかな一張羅を身にまとい、右に左にと腰をヒネリながらちょっぴり照れくさそうな表情で行進する姿が実に印象的だった。
このパレード中は本当にみんな楽しそうな顔をしていて、普段はあまり自分から絡んでこないようなちょっと内気なボリビア人達も、このときばかりはお酒の勢いも借りつつ、思い切りオープンマインドでうちらの相手をしてくれた。
ということで、とりあえず一緒に踊ってみました、、、、(写真上右)
他にも宿で出会った仲間達数人と、たった2レーンしかないという一風変わったボーリング場へ遊びに行ったりもした。。。
このボーリング場は、おっちゃんが手で一本一本ピンを立ててくれるというアナログなトコで、ボールが戻ってくるときも、おっちゃんがレールにボールを乗せてから初めて戻ってくるという、今時何とも珍しいボーリング場だった。
こんな調子だからスコアももちろん自分達で手書きだし、よく見るとレーンもちょっと傾いてる。。。
こんなレトロなボーリング場は初めて、、、そりゃ、今の自動のヤツと比べたらいちいち手間が掛かるけど、そのアナログ感がうちらにとっては逆に新鮮で味わい深かった♪
それと、この町では最近調子の悪かったカメラを新しく買い直した。ウユニ辺りから激しい気温差と標高差のダブルショックせいでズームが壊れてしまってたのが、とうとう写真じたい撮れなくなってしまったのだ。
しかし、こんな日本から離れたトコにも関わらず、Canonのカメラが日本とあまり変わらないぐらいの値段で買うことが出来た。 で、安いついでに i Touch なんていうモノまで買ってしまった。。。
i Touch は前々から欲しかったアイテムだったんだけど、南米ではあまり売ってなかったうえに、仮にあったとしても日本よりも高くてなかなか手が出せないでいたのだ。
それが310$という今までで見た中で一番安い値段で売ってたのと、最近日本を発ったばかりの旅行者から聞いた日本の様子が切っ掛けになって、「コレで少しは日本と繋がれれば・・・」という切なる願いのもと購入を踏み切った。
当たり前といえば当たり前の事なんだけど、この1年半の間に自分達の知らないところで刻一刻と日本の社会が動いてるって事に軽い不安を覚えてしまったのだ・・・。
とまぁ、、少し話しがそれてしまったけど、うちらはこの町では特に観光らしい観光をしたワケじゃないけど、とにかく「食」に「買い物」、それと忘れちゃいけない「触れ愛」と、それらを満たすだけで十分充実出来ちゃうトコなんではないかと勝手に思ってる次第であります。。。
※うちらは大丈夫でしたが、ラパスは物騒な話も沢山聞くので、滞在する予定のある人は十分注意してください!!
(写真左)意外に綺麗だったラパスの夜景☆
(写真右)美味しそうなトカゲが大量に漬けられた瓶詰はいかが!?
May 03, 2008
世界最高所にある町
ボリビアの首都ラパスから南東に約450kmの所に位置する「ポトシ」という町は、標高 4,000 mという高地にあるため、人が住む都市としては世界最高所になるそうだ。
その世界で一番高い所にある町ポトシへ向けて、うちらを乗せたバスは午前10時にウユニの町を出発した。
セミカーマ(2ndクラス)と聞いてたけど、実際来たのはかなりのオンボロバス。。。最近乗ってた南米のバスと比べると雲泥の差だ。
それにポトシまでの道程も、険しい山の間をぬうようにして走ってるせいか、ボンヤリしてると思わず舌を噛んでしまいそうなほどのガタガタ道だった、、、
こんな調子で、ウユニからポトシまでの間は地図で見るかぎり大した距離でもないのに、何だかんだ7時間も掛かってしまった・・・。
ポトシの町は意外にも都会だった。。。 (最近居たトコに比べてだけど・・・)
で、着いて早々気になったのが、バスに書かれてる日本語がやたらと目につくコト・・・。
「草津なんちゃら旅館」とか「双葉なんたら幼稚園」とか、、、
というか、町を走ってる乗用車の殆どは10年落ちぐらいの日本車しか見かけない。。。
これまでの南米の国ではそんな事なかったのに、ここにきて急に増えた日本車の数にまず驚かされた。
これはこの国が南米最貧国というのと関係があるのか、ODAなどの援助的な意味合いもあってのことか、どちらにせよ、この国には日本ではもう需要がなくなってしまったぐらいの年式の車が大量に流れ込んできているようだ、、、
この町は世界最高所という以外にも、背後にそびえる鉱山が有名で、1987年に「セロ・リコ銀山」を含め、その他の構造物とともに世界遺産に登録されている。
ということで今回は、その「セロ・リコ銀山(写真下)」の採掘現場の様子を垣間見てきた。

まずは用意された作業着に着替え、長靴とヘルメットにバッテリー付きのヘッドランプ着用という、完全現場仕様に身をくるんだ。
次に鉱山で働く人達への差し入れとして、コカの葉、タバコ、アルコール、ジュースなどを市場にて購入(写真下左)。ついでにダイナマイトも三本ほど・・。
その差し入れを持っていよいよ鉱山の内部へと入ったわけだが、入ってすぐの所にデビルのような姿の石像が奉ってあった(写真上右)。
これは「ティオ」と呼ばれる、坑内の安全を守る神様だそうだ。
「何でデビル?」と思ったけど、彼らにとってデビルとは不吉な存在ではなく、強さの象徴であるらしかった。
このティオにたばこをくわえさせ、酒を捧げることによりご機嫌を取り、坑内の安全を祈願するのだそうだ。
その一方で、スペイン人をデビルに見立てて作ったという説も残っている・・・。
うちらもそのしきたりに従い、きちんとティオに安全祈願してから深部へと入っていった。中は真っ暗で、思いのほか狭く息苦しい、、、
驚いたことに、スペイン植民地時代当時にスペイン国内で流通していたコインの大半が、ここで採れた金や銀を使って作られたものだそうだ。。。
しかしその裏では、飯もロクに食べさせてもらえないような環境下で長時間にわたって重労働を強いられ、数多くの奴隷労働者がその環境に耐え切れず死んでいったという、、、
昔は強制的に集められたインディヘナの奴隷にまじり、数多くの黒人奴隷もここで働かされてたらしいが、今ではもうその姿もなかった。
実際に中で働く人の仕事ぶりも見学させてもらった。
上の写真に写ってるおっちゃんは、ここで「上の階層から落とされた土砂を外へ運びだす」という仕事を、なんと25年もの間ずーっと続けてきたという・・・。
それも見ての通り、今だスコップに荷押車という具合なので、見てるこっちが呆れそうになるほど効率が悪い、、、
日も当たらない暗く狭い穴の中で、疲労と空腹をコカの葉でごまかしつつ、来る日も来る日もひたすら穴を掘り続ける、というのは一体どういう心境なんだろう、、、
正直、今の自分からは想像すらつかないし、考えてみたところでとてもじゃないけど耐えられそうになかった・・・。
さらに、ここで働いてる人の給料は今でも歩合制のようなものらしく、実際に鉱物が出ないことにはいくら働いてもその給料は支払われないようだ。
その時の相場の影響なども大いに受けるとのことで、話を聞くかぎりではその生活は決して楽に見えようハズもなかった。。。
そんな彼らの唯一の支えである「コカの葉」も、最近になって政府が規制をしき始めたとかで、これにはみんな一丸となって抗議してると声を粗げていた。
この銀山、一説には800万人もの人が犠牲になったといわれており、別名「人を食う山」として恐れられていたそうだ。それは奴隷制度の象徴として「負の世界遺産」にも数えられているほど。
800万って言ったら、ナチスホロコーストの数倍の規模だよ、、、!?
悲しいかな、それだけの数の命が、ただ光ってるだけで腹の足しにもならないモノに対し費やされてきたってのが人類の軌跡のようだ、、、
実際のところ、金や銀に本当にそれだけの価値があったのかどうかなんて自分にはよく分からない、、、
けどその華やかな輝きの裏に、想像もつかないほど苛酷で、気の遠くなるような単調な作業が隠されている事だけは確かだった。
最後に、発破の時に使うダイナマイトを試しにその場で1本爆破してみせてくれた。
初めて目の当たりにしたダイナマイトの爆破は、それはそれは凄まじい音と衝撃だった、、、
でもその威力もさることながら、何処にでもある何の変哲もない露店で、それがフツーに売られてるとはさすがに思いもしなかったなぁ。。。
(形が形だけにまさかとは思ったケド・・・)
May 01, 2008
ウユニの夜明け
チリの北部、海抜2400メートルの荒野にある「サンペドロ・デ・アタカマ」という町から(写真下)、ボリビアの「ウユニ塩湖」へと抜ける2泊3日のツアーに参加してきた。
たまたま日本から短期旅行に来ていたカズさんと、アメリカ人と日本人のハーフのスダさん(顔は思いっきりアメリカ人・・)、イギリス人のリサと、もう一人の女の子(ゴメン名前忘れた...)
さらに、インディヘナのドライバーとそのファミリーが食事担当としてうちらの車に同乗した。
ツアー初日、特に何もないチリとボリビアの国境まではミニバスで向かい、そこからは険しい道が続く為、頑強なランドクルーザーに乗り換えた。
まず初めにホットスプリング(温泉)に寄ったのだが、あまりの寒さにうちらは服を脱ぐ気すら起きず足湯だけで済ました、、、
そんな中さすがというか何というか、イスラエル人や欧米人は寒さにも臆する事なく果敢に水着に着替え入浴。。。
この辺りにはいくつか湖があるのだが、周囲は乾ききった大地にもかかわらず、そこだけは豊富な水が存在していた。

そのうちの一つ、ピンク色をした湖ではピンクフラミンゴの群れが水浴びをしている姿を目にすることが出来た。
途中、かわいいリャマ(ラクダの仲間)の群れに遭遇(写真下)。
それにしても、頭上に広がる空が今まで見たことないぐらい近くて碧い、、、
それにつれ高度が着々と上がってきているせいか、心なし呼吸も苦しい。
ふと車内の高度計に目をやると、すでに標高4300メートル地点を指していた。
1泊目の宿に到着すると、着くなりすぐ「コカ茶」というモノが出てきた。
「コカ茶」とは、コカインの原料でもあるコカの葉を乾燥させたモノをお湯で煎じ、好みで砂糖などを入れて飲むこの地方特有のお茶で、高山病予防に効くとしてこの辺りの標高が高い地域では、古くからごく一般的に親しまれてきた飲み物だそうだ。
その昔ながらの知恵にあやかり、僕らもアンデスに居る間は、事ある毎にこの「コカ茶」をガブガブ飲んだ。
日が沈むと気温は一段と冷え込み、夕食の時点で氷点下7℃まで下がったが、食後は特にすることもなくただ寒いだけなので、20時頃には部屋の電気が消えた。
しかし、コレが良くなかった・・・・・。
高山病を防ぐには、呼吸が浅くなるのを避けるために”あまり寝ないほうが良い”って言われていたのだが、初日から寝るのが早すぎたせいで案の定体調を崩してしまったのだ。。。
高山病の代表的症状である“激しい頭痛”と“身体のダルさ”のせいで、夜中に何度も目を覚ましてしまった、、、、
仕方なく、完全に目が覚めてしまった4時ごろから、皆が起き出す7時までの間、これ以上症状が悪化しないようにと願いつつ、延々3時間近く深呼吸を繰り返した、、、
2日目の朝、その努力の甲斐もむなしく、頭は割れそうなほどガンガン痛い。。。
朝食のパンとチーズをコカ茶で何とか流し込んだものの、身体もまるで高熱が出た時のように重くてダルい、、、
しかも同じような症状がゆりにも出ていて、ゆりのほうは朝食すらまともに食べれないようなヒドイ状態になっていた。。。
でも不思議と他のメンバーは、「少し頭痛がする」と言ってるぐらいでさほどはヒドくはなさそうだった。 。。
朝食を食べ終えるとすぐ、ジープの屋根に荷物を積みこんで出発。
今日もいくつかの間欠泉やボルケーノ(溶岩地帯)、湖を巡った。
出発してから数時間、相変わらず激しい気持ち悪さと頭痛が続いている。
こんな状態じゃ正直景色を楽しむどころじゃない・・・。
それでも空は吸い込まれそうになるほどに澄み切った碧をしていた、、、、
ひたすら続く荒野と、たまに現れる湖だけの世界。
何処までも続く荒野をひた走り、エジプトの白砂漠にもあったような奇岩(写真下)をカメラに収め、あとは変わり映えしない湖をいくつか回る。

途中、「サンフアン」という何も無い小さな小さな町にも寄った。
ろくに作物も育ちそうにないような過酷な環境で、インディヘナの人達は質素につつましやかな生活を営んでいた。
2日目の宿は、なんと壁から家具までが全て「塩」で作られているという、その名も塩のホテル(写真下)。いつの間にか辺りは白(塩)一色の世界になっていた。

ここで二日ぶりのシャワーを浴びてから晩飯を食べた。この頃になると、ようやく言うことを聞かなかった身体が落ち着きを取り戻し、次第に高度にも順応してきたようだった。
夜9時、発電機が止まるのと同時にすべての電気がパタッと消えた。試しに持ってる服をフルに着込み、ホテルの外へと出てみた。
思った通り、空の上にはこぼれんばかりの星空が広がっていた。空気が澄んでるうえに周辺が真っ暗な為、流れ星が数分おきにビュンビュンと頭上をかすめる。
さすが日本の真裏だけあり、そこには今までに見たこともないような星座ばかりが輝いていた、、、
3日目の朝は塩湖の真上で日の出を見るというスケジュールの為、まだまっ暗な夜中のうちにホテルを出発した。
ジープは暗い塩湖の上を、時速100km以上のスピードで爆走する。なぜか時折ライトを消しながら走ったりするので、衝突しやしないか冷や冷や・・・。
その状態で走ること30〜40分、突如その島は現れた。朝日のビューポイントである「フィッシュアイランド(魚の島)」に着いたのだ。

そこは、まさに塩湖のど真ん中にポツンと佇んでいる離れ小島で、奇妙にも岩肌には大量のサボテンが寄生していた。
そのサボテンのシルエットが月明かりに照らされ、その姿は得もいわれぬミステリアスな雰囲気を醸し出している。

すでに辺りが明るくなり初めていたので、駆け足でこの島の頂上を目指す。
しばらくすると、闇夜から覚めたばかりの青白い地平線から、朝日のやわらかい光りが遮るものなく何処までも果てしなく広がっていった。

一瞬、全ての時間の流れが止まったような感覚、、、、
目の前に広がってる光景はとてもじゃないけどこの世のものとは思えない、、、
360°見渡す限り真っ白な世界に、微かに遠めに映る頂に雪を被った山々、、、
さらに自分達が立っているサボテンだらけの不思議な小島の存在、、、

そのシュチュエーションのすべてが揃って初めて、今までに観たこともないような幻想的な夜明けが創造されたようだ。
これは旅に出てから迎えた数多の夜明けの中でも、特別スペシャルなものになった、、、
不意に「色々あったけど旅を続けてきて本当に良かった・・・」という想いが胸の奥底から込み上げてくる、、、、、
そんな想いをひしひしと噛み締めながら島をおりると、そこには温かいコーヒーとカチカチに冷えたパンが用意されていた。
冷えきった身体を温かいコーヒーで暖めた後、今度は思い思いに塩湖の上での記念撮影を楽しむ♪
ココには「白い」地面と「青い」空しかない。。。
だから、撮れる写真はどれも不思議と遠近感がなくて面白いのだ。。。



こんな調子で、気づくと3時間以上も熱中しちゃってたほど。。。
やっぱ面白い写真を撮るっていうのは年甲斐にも無く楽しい♪
その日の午後にはウユニの町へ到着し、昔使ってた鉄道が捨てられている「鉄道墓場」のような所を経て、昼食後にツアーは解散となった。
今回は激しい環境の変化で苦しんだりもしたが、良いメンバー&良いガイドにも恵まれ、いつにも増して思いっきり楽しませてもらった♪
そして、今でも信じられないくらいとびっきり幻想的だった惑星地球の夜明けに立ち会えたという事実、、、、、
それは間違いなく、永遠の記憶として僕らの魂に深く刻み込まれたことでしょう・・・・・。
これは後になってから聞いた話ですが、僕らが「フィッシュアイランド」で夜明けを迎えた朝、同じタイミングでその場に居合わせたイスラエル人のグループのうち数人が、その帰り道に日本人観光客を乗せた車と正面衝突し、イスラエル人グループ側のドライバー1人を残して全員死亡したという話を聞きました。
ドライバーも客と一緒になってお酒を飲んでたとかいないとかっていう話も聞きましたが、あれだけ広大で視界を遮るものが一切無い塩湖のど真ん中で、それが日中の事故だったというから本当に驚きました。
さらに少しタイミングが違ってたら、これはうちらに起きててもおかしくなかったという事を思うと、全身の身の毛もよだつような思いでした。
亡くなった方々には本当に気の毒ですが、僕らとしてはこういった冒険旅行の裏には常にこのようなアクシデントが起きる可能性をはらんでいるということを改めて肝に銘じ、この出来事を受け止めたいたいと思います。
(写真上左)塩湖の表面は、固まった塩の結晶が亀の甲羅のような幾何学模様を描きだしていてアートしてる・・。
(写真上右)塩湖の表面をかき集めて山にし、乾燥させたものが商品として出荷される。この塩で塩ラーメンを作る人も居る・・。
(写真下左)塩のホテルで会った赤ちゃんと多分そのお姉ちゃん。お姉ちゃんの鼻下が寒さと乾燥で擦り切れて痛そうだった・・。
(写真下右)確かリャマの肉だったと思うけど、堅いし独特のクセがあって僕は正直苦手でした・・。
April 26, 2008
お魚天国チリ
壮大なパタゴニアの自然を後にし、次にうちらが向かったのはチリ。
そのチリでは、ずーっと楽しみにしていたコトが一つある。。。。。
イヤっっ、むしろチリへはその為に行ったようなもんか・・・・・。
それは”新鮮な魚貝類が安く豊富に食べれられる”というコト!!!
日本を出てからすでに1年以上が過ぎた今、僕らにとって魚介類という存在は、会いたくても会えない恋人のような存在にまで膨らんでいた。
そのはやる気持ちを抑えきれずに、わざわざ高いお金を払って”寿司っぽいもの”を食べて気持ちを紛らわすなんてことも何度かあった、、、
そんな折り、“チリでは市場で買った新鮮な魚介を自分で好きなように調理出来る宿がある”と旅行者から聞いていたので、ずいぶんと前からココに来るのを待ち侘びていたのだった。
だいたい、どうして海外のスーパーってのは魚貝のコーナーがほんのチョットしかないの、、、!?
どこの国も肉ばっかがメインで、魚貝を扱ってたとしてもたいがい[肉9:魚1]ぐらいの割合しか置いてないし、、、
それも生で食べれそうなぐらい新鮮じゃないうえに、肉よりも圧倒的に高いってのが今までのパターンだ。。。
だからこれまでの国では、値段といい鮮度といい「魚貝」ってはうちらが思っているほど気軽な食べ物ではなかったのだ。
目指すはチリの首都サンチアゴから、バスで約1時間北へ行った所にある「ビーニャ・デル・マール」という町。
僕らはこの町にある「汐見荘」という日本人宿にお世話になり、その間5日間にわたり海鮮尽くしの日々を送った。
まず、新鮮なネタを手に入れるには朝8時頃までには宿を出て、片道40分ほど掛けて歩いて漁港まで行かなければならない。
その漁港では、毎朝近海で水揚げされたばかりの様々な種類の魚やカニなどが、地元の漁師らによって威勢よく売り飛ばされていた。
日本の裏側にあるチリだが生態系が日本近海と似てるのか、あじ、さば、いわし、渡りガニ、イカなどの日本でも馴染みのある魚ばかり並んでいた。。。
うちらが仕入れたのは、サーモン半匹(約1.5kg)に、大あさり1kg、あじ2匹、えび2種類を各500gずつ、、、全部で締めて1600円成り!!
これだけあれば十分足りるだろうと、両手いっぱいに袋をぶら下げてルンルン気分で宿へ戻った。
その日は昼頃から仕込みにかかり、出来あがった夕飯のメニューはというと、、、
・ サーモンと甘えびとあさりの刺身
・ あじのタタキ
・ あさりのみそ汁
刺身に付ける醤油はもちろん”キッコーマン”に決まっていて、肝心なワサビと日本米も、この日の為にと事前にアルゼンチンの外資系大型スーパーでゲットしておいた!!
アジのタタキは、さすがに採れたてのものだけあって身がコリコリ締まっていて最高だった☆☆
サーモンは刺し身の他にも、せっかくだからということでいくつか握りにしてみた。半身だったから鮮度がやや心配だったけど、実際食べてみると全く問題ナシ!!
ちっとも臭みが無いうえに、脂が適度にのっているので握りにしても刺身で食べても格別☆☆☆
甘海老はアボガドと一緒にマヨネーズで和えて食べた。日本で食べるほどのプリプリ感はなかったが、トロ〜っとした甘い触感が堪えられなかった☆☆
大きめのあさりは、生のまま殻を剥いてレモンを絞って食したが、身は思いのほか柔らかく、濃厚だけどクセのない味でとても食べやすかった☆☆☆
と、まぁこんな感じで、勢いあまってちょっと豪勢にいきすぎちゃったカナ、、、
しかも、「わ〜い、久々の生魚だ〜っ♪」と張り切って食べ始めたわりには、最後のほうには二人ともキモチ悪くなってしまった。。。。。
で、その時痛感した、、、、
“生魚は決して食べ過ぎるモンじゃない” ということを、、、、、
そしてその後も、鮭の塩焼き・あさりのボンゴレ・あさりの炊き込みご飯・甘エビの丸揚げ・甘エビとサーモンのほうれん草クリームパスタ、などなど、、、
ありとあらゆる魚介を、手を替え品を替えてたらふく味わった至福の5日間だったのでした♪♪♪
(あ〜美味しかった☆)
April 15, 2008
フィッツ・ロイ
氷河を満喫したお次は、エル・カラファテからバスで4時間ほど行った所にある「フィッツ・ロイ」という山でのトレッキング。
そこで朝日を迎えるべく、僕らはフィッツ・ロイ山の麓にある「エル・チャルテン」という何もない小さな村に宿泊した。
まだ夜も明けぬ頃、地図と懐中電灯を片手にたった二人きりで出発。
真っ暗な山道を2人きりで歩くのは少し心細かったけど、歩き始めてから1時間もしないうちに、東の空が夜明け前特有の淡い赤紫色へ明るみを帯び始めてきた。
次第に周囲の景色も見えはじめ、遠くの山々や小川の輪郭がハッキリと目の前に現れる。
雲に反射したピンク色の光りが、木々の紅葉の紅にも同調してその鮮やかさを一層際立たせている。
茂みが途切れた部分からは、フィッツロイの頂がようやくその姿をあらわにした。
白い雪を纏ったその山肌は、うちらの期待通りかすかだけど赤みを帯びている。
それはホンの数分の姿ではあったけど、うちらにとっては不足ない時間だった。
ふと気づくと、あたり一面ピンク一色のメルヘンチックな世界に足を踏み入れていた、、、
ピンク色の森を抜け、手作りの橋が架かった小川を渡る。
かろうじて朝日は見えたものの、雲が多かった為にすぐに太陽は隠れてしまった。
そこからは雲りがちな天候の中、眺めが一番良いとされるビューポイントを目指した。
フィッツ・ロイ山の麓に近づくにつれ、辺りは真っ白な雪に覆われ始め、同時に足元の積雪の深さが増していく。
そんな中、ビューポイントまであと少し、、、、
という所まで頑張ったのだが、あまりに急な傾斜と硬いアイスバーンのため、ちゃんとした装備をしてない僕らはやむを得ずそこまでで断念せざるをえなかった。。。
しかし、すぐ眼下に視線を移せば、遥か広がる壮厳なパタゴニアの大自然があった。
そんな風景を見れただけで、もう充分だった、、、
南極に程近いパタゴニアの自然が織りなす壮厳な大地を、自分の足で直に踏みしめることが出来たトレッキング体験だった。
(写真上)翌日、別の角度から観たフィッツ・ロイの姿。
April 14, 2008
氷河トレッキング
アルゼンチンの「エル・カラファテ」という町では“氷河トレッキング”という何とも魅惑的な響きのツアーに参加してきた☆
夜明け前のまだ暗いうちに町を出発したバスは、約2時間ほど掛けて船が停泊してあるポイントまで向かった。
近ごろは雪が降ったり雨が降ったりと、あまりスッキリしなかった天気だったけど、運よくこの日は快晴!!
どこまでも広がる深い紺碧色の空の下、眩しいほどにキラキラ輝く氷河を目の当たりにしてきた。
氷の上では滑らないように、「アイゼン」という鉄の爪のようなものをトレッキングシューズの底に装着。
日の光を透過させた氷河は、まるで宝石のようにキラキラと透き通って輝いている。

何万年という長い年月が生み出した、この得もいえぬ色にはただただウットリするばかり。。。
1時間ほど氷河の上を歩いた最後には、その氷河を入れたウィスキーで皆と乾杯っ☆
調子に乗ってあまり酒の飲めないゆりの分まで飲んでたら、いつのまにかフラフラに。。。。
氷河の上で酔っ払う。。。という何とも貴重な経験をしたお次は、バスで1時間ほど行った所にある展望台へと移動。
そして、そこからの眺めに思わず息を飲むことに。。。
ここからの景色を見て初めて、さっきまで見ていた氷河は全体のほんの一部で、実際の氷河全体は想像してたよりも遥かにデカかったということに気づかされた、、、
ガイドブックによればここの氷河は全長約35km、高さは60m〜100m。平均して1日に中央で2m、両端でも40cm前進しているそうだ。
時たまゴゴゴゴゴゴゴゴー・・・・っという、空を切り裂くような轟音をあげながら、溶けた氷河が海面に崩れ落ちる時がある。
生まれて初めて目の当たりにした氷河の崩落は、人知を越えたそのスケールで、遥か原始からこくこくと刻まれてきた地球の息吹までをも感じさせてくれた。

これはもう単純に「スゴイ・・・・・!!!」としか言いようがない、、、
その光景をしばらく眺めていたかったけど、残念なことにココでの自由時間は1時間しか与えられてなかった。
この氷河に崩落をもってして、今回のツアーは一通り終わったんだけど、これにはもちろん大満足☆
いや、ツアーのそのものというよりは氷河そのものに満足したって感じカナ、、、!?
あぁ、でも出来ればもっと氷河を眺めていたかったなぁ。。。。。
April 08, 2008
世界最南端の町
ブエノスアイレスを満喫した後は“世界最南端の町”とされている町「ウシュアイヤ」を目指した。
けれどタイミング悪く、うちらがブエノスを出るほんの数日前からオフシーズンに突入してしまい、航空会社のオフィスでは「直行便は先週で全て終わった」と言われてしまった。
仕方ないので手前の町まで飛行機で飛び、そこからバスやら船やらを乗り継いで途中チリとの国境を2度も出入りする、という何とも面倒な方法をとって、2日がかりで何とかウシュアイヤに辿り着くことが出来た。
(写真左)夜明け前のリオ・ガジェゴスの空港にて。。。
ここウシュアイヤは“世界で最も南極から近い町”の為に、シーズン中には多くの「南極大陸クルーズ船ツアー」が出ることでも有名だ。
「一生に一度は南極を・・」という想いを胸に、毎年世界各地から数多くの旅行者がこの町を訪れるようだ。
この小さな町は四方を海と山に挟まれていて、この時期南極から吹き付ける風は肌に突き刺さるように冷たい。
着いた時は山の頂にだけ積もっていた雪は、数日の間にいつの間にか中腹までを真っ白く覆うほどになっていた。
と同時に、最盛期を間近に控えた紅葉が見事なグラデーションで僕らの目を楽しませてくれた。
それと、ここウシュアイヤには「上野山荘」という、日本人のあやこさんというおばあちゃんが一人で切り盛りをしている名物宿がある。
その宿は山小屋風の素朴な作りだが、室内は24時間しっかり暖房が効いてて暖かいうえに、こんな辺鄙な場所にもかかわらず何とTVではNHKが観れる。
さらに極め付けには「五右衛門風呂」なんていう有り難いアイテムまであって、厳しい寒さのなか熱い湯船に浸って体の芯までポカポカに温まることが出来る、というまさに沈没必至の宿だった。
※「沈没」とは、旅人用語で諸々の理由により長期間同じ所に居座ってしまうということデス・・。
さらに、この宿は今年の正月に「こんな所に日本人!!」という、世界各地の辺境の地で生活を営む日本人を紹介する、という企画の特番でもTV放映された宿でもあった。
うちらも、あやこおばあちゃんからその番組を録画したテープを興味津々で見せてもらった。
そこには、タレントの「堀越のり」がレポーターとして上野山荘に取材にやって来て、ご飯を食べて「五右衛門風呂」にも入ったうえに、一晩実際に泊まっていったという模様が映し出されていた。
そして本当かどうかは分からないけど、見せてもらった「宿泊者名簿」には、本人のものと思しき筆跡で、名前と住所までが記してあった、、、(東京都目黒区××××)
さらに面白い後日談として、堀越のりが入った「残り湯」をめぐって、宿泊者同士争ったというエピソードまで残っているのだ。。。(笑)
自分は別に「堀越のり」のファンなワケじゃなかったけど、仮にもタレントである彼女が”確かにココに来ていた”という痕跡に、思わずテンションが↑ってしまったミーハーな自分なのだった、、、(苦笑)
さらに、ココの飼い犬の「トゥルーチャ」が、堀越のりにも負けず劣らずめちゃくちゃカワイイ。。。(写真下)
テーブルで人がご飯を食べてると、トゥルーチャがその下で太ももにアゴをひょこんと乗せてきて、吠えるでもなく騒ぐわけでもなく、物欲しそうな上目使いでジーっとこちらの顔を見つめてくるのだ、そう、ただジーっと、、、、、
このたまらなくカワイイ仕草に完全にヤラれてしまったうちらは、滞在中何度か散歩にも連れてってあげた。
でもそんな可愛い姿なのも束の間、散歩の時だけはそれはもう大変だった・・・。
嬉しさのあまりリードをグイグイ引っ張るわ、興奮して飛びついてくるわ噛みついてくるわ、おとなしくしてる馬にもここぞとばかりに吠えまくるし、、、、
まるで人(犬)が変わってしまったようになるので、普段はお利口なトゥルーチャだったけど、唯一散歩だけは骨の折れる仕事だった。。。。
宿の皆とレンタカーを借りて「旗の木」という珍しい木が生えるスポットへも遊びに行った。(写真下)

始終吹き付ける強風の為に斜めに育ってしまったその奇怪な形から、それはかっこうの写真撮影スポットになっていて、想像力を膨らました自由な(変な?)撮影を、思う存分みんなと楽しんだ♪
何とこの日の夕食は”カニ”!!!
ウシュアイアはカニが採れる事でも有名らしく、町中ではカニの看板を掲げたレストランも数件見かけた程。
“間に合ったら”ということで、あやこおばあちゃんに新鮮な採れたてを頼んでおいたのだが、運よくうちらの滞在中に間に合ったようだ♪
シンプルに大釜で塩ゆでしただけのものをハサミでぶった切って、そこにキューっとレモンを絞ってむしゃぶりつく。。。。。
”う〜〜ん、こりゃ〜ウマイッ!!!”
豪快に身を楽しんだ後は残った殻と身を使って、料理上手の「ムラさん」がパスタを作ってくれた。
カニの風味がしっかり効いたクリームパスタは、これまた絶品中の絶品だった☆☆☆
他にも「旅先でお世話になった人達に感謝の意を伝えたい」という理由から、常にお茶道具を持ち歩いてる、というかなりレアな人も。。。。。
ちなみに、旅中常に持ち歩いてるというこのお茶碗(写真上右)、、、、
なんでも有名な陶芸家のモノらしく、、、、、
なんと、、、、、、
100万円以上するらしいです。。。。。
一瞬言葉を失ってしまった一同・・・・・。
「手が滑って落としちゃったらどーしよー・・・」とヒヤヒヤしながら戴いたお茶の味は、、、、
う〜〜〜ん、ニガイ。。。。。。
その苦みの効いた「結構なお味」と共に、京都の人らしいたおやかな身のこなしをとくと拝見させてもらった、、、
この世界最南端の町「ウシュアイア」では、こんな感じでバラエティー豊かなメンバーと可愛いトゥルーチャに囲まれ、雄大なパタゴニアの自然の中で心温まる「上野山荘ライフ」を大いにエンジョイさせてもらったのだった♪♪♪
March 31, 2008
タンゴとステーキの誘惑
イグアスの滝を後にしたうちらは、パラグアイにある「日本人移住区」を訪れたのち、アルゼンチンの首都「ブエノスアイレス」へとやってきた。
このパラグアイというあまり馴染みのない国にもブラジルのサンパウロ同様、小さいながらも日系移民とその子孫が協力しあって生活しているエリアがあった。
周囲は赤土に囲まれた農地ばかりなので、これといって何かがあるわけじゃない田舎なのだが、言わずと知れた「農協」の姿なんかもあったりして(写真上右)、サンパウロとはまた違った形で日系の人達の生活を垣間見ることが出来た。
一方ブエノスアイレスの街並みは、まるでヨーロッパのようであり、そこを行き交う人達もまた、南米のイメージからはやや離れた”スペイン系の血が濃い”顔立ちをしている。
一見しただけじゃ、「ヨーロッパの何処かの都市」と言われても気がつかなそうな雰囲気。。。
そしてアルゼンチンといえば、なんと言ってもウマい”ステーキ”と”タンゴ”の魅力に尽きる。。。
長時間の移動で疲れた身体にムチ打って、着いてそうそう名物のビーフステーキにトライしてみた!!!
内心、「まぁ和牛の味を知ってる日本人からしたら大したこと無いんだろ・・・」
と、軽く高をくくってしまっていたのだが、、、
コレが実際食べてみると予想以上にウマくてビックリ☆☆☆
しかも、宣伝用のサービスメニューでも結構美味しかったんだから、もっとお金を出してそれなりの肉を注文したら、かなりの線までいくんじゃないかと思う。
けど、その宣伝用のサービスメニューでも、他にドリンクやらサービス料やらが掛かり、最終的には二人で1500円近く掛かってしまった、、、
う〜ん、安いと言えば安いけど高いと言えば高い・・・。
それでも、アルゼンチンの「質に対しての価格」というものが、どうも全体的に安過ぎる気がしていまだにピンときてないけど、、、
(すなわち、お得感が高いという事デス。。。)
内容はヨーロッパレベルなのに、料金は高めのアジア・・。
ヨーロッパの物価には、さんざん苦しめられた覚えのあるうちらにしてみたら、こんな嬉しいトコはない♪
それに比べると、ブラジルのあの”無駄に高い”物価は一体ナンだったんでしょ・・・!?
ウマいステーキを味わったお次はTANGO!!!
チケットは、知り合った旅人から事前に教えてもらっていた「金券ショップ」にて購入。
さすがにタンゴ発祥の地というだけあって、ブエノスアイレスでは毎日たくさんのタンゴショーが開かれているようだ。
うちらはその中から一つ、金券ショップの店員さんからオススメされたショーを観に行くことにした。
ショーと言っても、大概はホールでやるような大きい規模のものではなく、ステージの併設されたレストランで、食事やワインを味わいながらゆったりと鑑賞するというのが、ココでの一般的なタンゴの楽しみ方のようだ。
うちらが行ったトコも、20人も入れば一杯になってしまうような小じんまりとしたレストラン。 登場したダンサーは全部で3組、同じタンゴでもそれぞれ違うタイプのダンスを披露してくれた。
その中でもどのダンスにも共通するのが、ピッタリ寄り添った男女のペアが、音楽に合わせてリズミカルにクルクル回転する動きだ。
その動きの一つ一つが非常に繊細でセクシーなのだが、これには二人の息がピッタリ合ってないと、うっかり足を踏んでしまいそうだ。。。
演奏も、ピアノやチェロやバイオリンなどのクラシカルな楽器を使ってるので、なんとも言えない哀愁漂う大人のメロディーが奏でられていた、、、
他にも、きらびやかな衣装で着飾った男女が、自慢の喉を華麗に披露してくれた。
ショーが始まる前に、些細なことでゆりと口喧嘩してしまってたのだが、ショーが始まるとそんなことはすぐに何処かへ吹き飛んでしまっていた・・・。
とにかく、店の雰囲気から演奏から踊りから衣装から、、、、、
もう何から何まですべてが渋い、、、、、
そして、エロイ、、、、(渋エロ・・・!?)
ショーが終わると、ダンサーの人達が客の中からパートナーを1人を選んで一緒に踊る、なんていうイベントもあったりした。
そして、オレはそれに選ばれた、、、
(ムフフ。。。完全に鼻の下のびてます、、)
その晩は、今まで触れたこともない渋みの利いた色気タップリの世界に、たっぷりと2時間も陶酔させてもらった。。。
それにしても、この内容で1人60ペソ(約2000円)は驚きの破格だ、、、
しかも、この金額にはショー以外にもソフトドリンクと軽い軽食まで含まれている。。。
ちなみに、店内にある価格表では1人140ペソ(約5000円)ってなっていた・・・。
かたや金券ショップ様様でもあった、初タンゴ体験となりました〜☆

ブエノスアイレスは大道芸やら物売りが盛んで、道端でもタンゴやライブなどのショーを見かけることが出来た。(写真上)
March 23, 2008
イグアスの滝
「イグアスの滝」という世界三大大滝の一つを観るために、ブラジルからアルゼンチへ国境を越えてやってきた。
ナイアガラ、ヴィクトリアと並んで世界三大瀑布と呼ばれるイグアスの滝は、高さこそヴィクトリアの滝に及ばないものの、川幅と水量にかけては、他のふたつをはるかに凌駕するそうだ。この滝は、ちょうどブラジルとアルゼンチンの国境にまたがってる為、どちらの国からでも観ることが出来るのだが、うちらは評判の良かったアルゼンチン側から観ることに。
滝とその周辺は、世界遺産にも指定されている国立公園になっており、その園内は驚くほどキレイに整備されているのだが、広い園内の移動にはかわいらしい列車を使うので、どことなくテーマパークっぽい雰囲気も漂う、、、
けれど、そこに広がる自然は決して作りモノなんかではなく、正真正銘の生命力みなぎる豊かな自然が広がっていた。
滝自体も、個人的には今まで観た滝の中で一番好きカナ。。。
たんに大量の水が落下してるというだけじゃなくて、周囲との景観のバランスがすこぶる良いのだ。。。
園内には、滝以外にも水遊びが出来る場所があったり、マイナスイオンをたっぷりと浴びながら森林を散歩出来るようなコースがあったりと、丸一日居ても退屈しないような作りになっていた。
さらにココには、、、、、
「ボートに乗って滝つぼに突っ込む!!」
という、かなりキワどいアクティビティーもあって、うちらも恐いもの見たさ半分で参加してみることになった。

水着の上にライフジャケットを着用し、乗り込んだボートのシートは運良く?も最前列、、、、
その数分後、うちらを乗せたボートは乗客の発する「ギィャャ〜!!」という、歓喜とも悲痛とも言えない叫びとともに、巨大な滝つぼめがけて頭から突進したのだった。。。。。
うちらが座ったこの最前列が、最もダイレクトに滝のパワーを体感出来る場所でもあったんだけど、そのあまりの威力に「ひょっとしたら沈むんじゃ?」という不安も無くはなかった、、、
けれど、滅多に体験出来ないだろうスリルと迫力に、そんな心配を通り越して、いつの間にか大ハシャギしてしまってたうちらだったのだ。。。。。
イグアスの滝最大のクライマックスでもある「悪魔ののどぶえ」へは、やや日が低くなった頃合いを見計らって向かった。

桟橋の途中では野生の「ワニ」や、熱帯魚屋でお馴染みの「プレコ」を発見!!野生のワニやプレコを見たのはこの時が初めて、、、
正直、今まで「滝」っていうだけじゃそんなにそそられるモノでもなかったんだけど、ココではその周辺の自然環境も含めてトータルに楽しむことが出来たので、とても充実度高かったデス・・☆
March 17, 2008
予想外の誕生日
サルバドールを後にしたうちらは、ゆりの誕生日を“極上のビーチで迎える”という野望の為、「トランコーゾ」という片田舎の小さな町まで足をのばした。
ここは最近、新たなビーチリゾートとして注目を集め初めてるらしかったが、実際行ってみたらまだまだ素朴な雰囲気の残るステキな所だった☆
誕生日の晩は、かねてから「寿司」が食べたいという願いあって、町に数件ある“スシバー”のうちの一件を覗いてみることに、、、
だがその”値段”を見てわが眼を疑った・・・・・。
何と、、、サーモンの握りが、たった2カンで”千円”もするのだ、、、、、
まさか、、と思って他もあたってみたけど、どのレストランも似たような値段。。。
「いくら誕生日でも、さすがにコレは厳しいかな〜。。。」 と、諦めかけてた矢先、突如うちらの目の前に“しんご君”が現れた、、、
“しんご君”とは、サルバドールの宿で初めて会った日本人なのだが、話をしてくうちに偶然にも“地元が同じ”という事が判明し、最終的にはうちらもよく知っている後輩とまで“幼なじみだった”という縁で繋がってしまっていた。。。
「いったい全体、、、世界ってのはホントに広いのかい???」
旅を長く続けてると、この「偶然」ってヤツには度々驚かされる、、、、、
とりあえず、その時はまだレストランが探し途中だったので、「晩飯後にまた合おう!」うという事にし、しんご君がお世話になってるという居候先の場所だけは教えてもらうことに、、、
そこへは、場所を確認するがてら挨拶だけしに行ったつもりだったのだが、結局「ご飯も食べてもう少しゆっくりしていきなさい〜!!」 という話になってしまった。。。
まぁうちらにしてもどっちにしろ「寿司」は厳しそうだったし、予想外な展開だけどこんな誕生日も決して悪くないだろう、ということでその好意には有難く甘えさせてもらうことにした・・・。
そして嬉しいことに、その居候先のお母ちゃん“リヤ”が作ってくれた手料理は、何ともシンプルにして驚くほどウマかったのだ、、、☆☆☆
それは、「愛情」がこもった料理とそうでない料理とじゃ、同じ材料を使っても「味」が全然違うものになる、という事を改めて実感させてくれたようだった、、、
その後も、突然お邪魔したにも関わらず、みんなには温かく誕生日を祝ってもらったうえに、予想外の“バースデーケーキ”まで御馳走になってしまった。。。(本当にありがとう☆)
当初予定してた「寿司」からは、だいぶ予想もつかないような展開になったけど、コレはコレでゆりにとっては思い出深い良い誕生日になったんじゃないかと思う。
それにしても、リヤの子供“チッターニャ”は稀にみるイタズラっ子だ、、、
まだ4歳だってのに死ぬほど生意気で、小憎たらしいったらありゃしない、、、
しかも、その性格に似合わず、子供服のモデルなんて事までしているっていうんだから驚きだ、、、
言われてみれば、イギリス人との子だけあって“顔だけ”は確かにハンサムなのだ。。。
リヤには、今一緒に住んでる“チッターニャ”の他にも5人の子供が居るという。
しかも、そのうちの2人は“日本人”との子供だそうだ、、、
旦那さんの写真も見せてもらったけど、そこにはごくごく普通の日本人の男性の姿が写っていた。
まぁ色々と事情がありそうなんで、あんま深いトコまではつっこんで聞けなかったケド・・・。
とにかく、これまでに色んな国の人と付き合いがあって、リア自身も世界中色んな国に行った事があるようだ、、、
自分には「アフリカン」と「アマゾンの先住民」の血が流れている、という“自身のルーツ”まで熱心に語ってくれた。
なかなかスピリチュアルな価値観を持ってる人で、“パワー”とか“エナジー”とかいう単語を会話の節々に使う、、、
話によると有名なアーティストやダンサーなどにも幅広く友人が居るようだ。
結局、リヤにはそのあとも何度となく手料理を御馳走になってしまったうえに、お別れの日には、記念にと「手作りのアクセサリー」のプレゼントまで貰ってしまった。。。
うちらは大した奉仕は全然出来てないというのに・・・。
しかも、正直なことを言うと、、、、最後の最後まで、、
「ひょっとしてまた”最後はお金”のパターンになるんじゃ・・・」
という“恐れ”が、心の隅っこでわずかながら拭い切れないでいた、、、
しかし、そんなうちらの心配をヨソに、当のリヤは最後の最後まで“献身的な態度”をもってして、うちらをもてなし尽くしてくれたのだった。。。。。
(う゛ぅ〜、、、リヤ〜、疑ってゴメンよ〜。。。)
さらに齢を聞いてオッタマゲた、、、、、
なんと、ゆりの”一コ下”というではないか・・・・・。
すでに“肝っ玉母ちゃん”の貫禄じゅうぶんなのに、、、
こういう時、さっきとは逆に「世界は広いな〜」と感じる、、、、、
この世界には、若いのにあんなに色々な人生経験を積んだ、“愛情溢れた”人が居るんだなぁと思うと、なんだか無償に嬉しくなってしまうような出会いだったのでした。。。(オブリガード☆)
一方「リオデジャネイロ」のビーチは強盗や置き引きが多発しているというので、あんまり気は抜けませんでした。。。。。
それでもやっぱり、ブラジルのギラギラと日差しの下には“ビーチ”が良く似合っていた。。。
March 10, 2008
トレッキング恐怖症
サルバドールの宿にて仲間を募り、「チャパダディアマンチーナ国立公園」という所に、2泊3日のトレッキングツアーに行ってきた。
サルバドールから西に2〜300kmほど行った所にあるこの国立公園は、もっぱら欧米人には有名だそうだが、「地球の歩き方」に載ってないという理由から日本人にはでまだ知名度は低いようだ。。。
そこへは夜行バスに乗って近くの村まで向かい、そこで四駆に乗り換えてから道なき道を車で行ける限界のトコまで行き、そこからは各自持参した荷物を抱え自分の足で歩いた。
てっきり、うちらはその時まで、”初日はロッジまで車で行けるもの”だと思ってたのだが、どうやらそれは素敵なカン違いだったようだ・・・。
3日分もの昼飯の食料を買い出してきてるうえに、クソ重い“ドリンクやお酒”まで持ってきちゃてたからコレにはちょっと笑えなかった。。。
地元のガイド「マリ」のナビゲートによって、のっけからそんな調子で始まったトレッキングなのだったが、、、
まったくコレが“シンドかった”のナンのって・・・・・・・。
トレッキングにはわりと自信があったつもりのうちらだったけど、あまりのシンドさに途中から“景色を楽しむ”なんて余裕すら無くなってしまってた程、、、
初日は、途中で川や滝などに寄って遊んだりしながらも、何とか日が暮れる前までにはロッジ(写真左上)に到着することが出来た、、、
しかしそこへ追い討ちをかけるように、ガイドのマリが「肩が痛くて料理が出来ない、、、」とか言い始めた為に、疲れきったうちらが晩飯を作るハメに。。。
しかも調理は、ガスも電気も無いキッチンで懐中電灯とロウソクの明かりだけを頼りに、まずは“釜に薪をくべる”という何とも原始的な所からのスタート、、、
でも、そんな中で皆で協力しあって作った夕食は、楽しかったうえに実際の味よりもおいしく感じてしまうんだから摩訶不思議☆☆☆
そしてその傍らでは、ナゼか“痛いはずの腕”でギターを弾きつつ、呑気に歌なんか歌いながら酒をあおっていただけのマリだったのである。。。(写真右上)
その翌朝は、ふと寝返りをうったときに感じた、強烈な太ももの痛みによって目が覚めた。。。。。
朝食の後、その殺人的な筋肉痛をうらめしつつ、今日のポイントである洞窟へ這うように向かった、、、
しかし、その洞窟を抜けた奥では、久々の“絶景といえる絶景”がうちらを待ち受けていたのだった、、、☆☆☆
その景色を目の当たりに出来ただけでも、じゅうぶん“筋肉痛の意味はあった”と思えるような、それはそれは壮大なモノだった☆☆☆
その眼前に広がった荒削りな自然は、「ジェラシックパーク」さながらトリケラトプスなんかが飛んでたって疑わないような、遥か太古の地上を思わせるようなものだった、、、
その二日目は、大した距離は歩かずに穏やかに終わっていったのだが、最終日にはアップダウンの厳しい山々を、ひたすら苦行のように歩き続け、終わってみればなんと合計30km近くも歩いてしまってたらしい。。。。。
ヘロヘロの放心状態になりながらも、ようやく辿り着いたゴールの村では、今回のツアーの無事をみんなで祝い“キンキンに冷えたビール”でお疲れの祝盃をあげる事となった。
そして、この時のマリの何気ない一言で明らかになった、、、
今回のトレッキングでマリは、うちらが特に“何も言わなかった”からと、終始自分のペースで歩き続けたという・・・。
それを聞いてようやく自分の中にあった疑問が解けた、、、
「こんなハードな行程を、来た人はみんなちゃんとこなせてるんだろうか???」
というようなコトが、歩いてるときから常に頭に浮かんでいたのだが、、、
いつもなら(※他の国の人の場合)疲れたらすぐ“休憩させろ”と騒ぐ客が、うちら日本人は“シンドくても我慢してしまう質”で何も言わなかった為に、ガイドのマリの目にはてっきり“大丈夫”と映ってしまってたようなのだ。。。
さらにマリは、日本人のガイドをしたのは今回が“初めて”だという、、、
コレには納得してスッキリしたのと同時に、ある意味で感心してしまった、、、
言われてみれば確かにソレは、日本人独特の「我慢強さ」というか「負けん気」というか、、、
(う゛〜ん、、、そのせいもあってこんだけシンドかったわけネ。。。。。)
まぁそもそも、この広大な国立公園を2泊3日で観ようとしたスケジュール自体にも問題はあったようだケド。。。
さらにコレ以来、「トレッキング恐怖症」という情けない恐怖症に悩まされてしまうようになってしまったうちらなのでした、、、
※トレッキング恐怖症とは・・?
いわゆるトラウマの一種で、“トレッキング”という響きを聞くだけでこの時のツラい体験が脳裏に蘇ってしまう、比較的ヘタレに発症しやすい精神疾患です。
(でも、思いっきり疲れた後に飲んだ“ビール”は最高にウマかったなぁ〜☆)
March 04, 2008
プチカーニバル
話には聞いてたけど、ホント想像いじょうに快適なバスなんで驚いた。。。
ブラジルの長距離バスは「枕」や「ブランケット」がついてきて、シートはゆったりしているうえに足元には「フットレスト」まで備え付けられてる、という飛行機のビジネスクラスも真っ青な「快適仕様」だったのだ、、、
サンパウロから33時間(※過去最長)かけて走ってきたバスも、2日後の早朝にはようやく「サルバドール」のバターミナルへと到着。
通しで“33時間”なんていうと、恐ろしく長い道のりのハズだけど、この「ビジネスクラス」のお陰でそんなに疲れることなく快適に過ごせた♪
やや肌寒いぐらいだったサンパウロから来ると、サルバドールの気候はものスゴク蒸し暑く感じる。。。
容赦なく照りつける紫外線と、その日差しを真っ向から受けて直視出来ないほどにギラつく海。途中、バスで通りがかった海岸沿いでは、朝早くからマラソンをしてる人の姿をかなりの数見かけた。
その海を見渡せる丘の上に広がるのは、ポルトガル植民地時代のコロニアルな雰囲気が今なお残るの旧市街の町並みだ。
現在でも、当時jの趣きを残した古い建物がたくさん残っていて、色とりどりのパステルカラーにペイントされた家々が、年季の入った石畳とともに何処までもクネクネと建ち並んでいるのだ。
黒人の姿も、ここにきて一気に増えたせいか、街の雰囲気はサンパウロとは明らかに異なる印象を受けた。
さんさんと放たれる太陽の光とあいまり、黒人特有の“楽天的”かつ“エネルギッシュ”なエネルギーが、この街を支配してるように感じる、、、
ここサルバドールにも、日本人の旅人が情報や仲間を求めて集う安くて快適な宿があり、滞在中はうちらもそこを利用した。
そこには、サルバドールがあるバイーア州が発祥の※格闘技のようなダンス「カポエイラ」や、カポエイラの際に弾く弦楽器「ビリンバウ」なんかを習っている人も、数人長期で住み込んでいた。
※本来は「ダンスに見える格闘術」として黒人奴隷の間で発祥したそう・・。
辿りついた経緯はそれぞれ違くとも、皆それぞれに秘めた「想い」を胸にしており、こういったトコでお互いの「魂」に触れ合うというのが、旅をするうえでの掛け替えのない“喜び”の一つのようにも思う。。。
それと、ここサルヴァドールで“絶対”ハズせないのが、毎週日曜と火曜にあるお祭りだ☆☆☆
うちらもさっそく、日曜の夜8時くらいから街へ繰り出してみた。
教会前の階段で開かれていた地元アーティストのライブでは、既にものすごい量の人で階段が埋め尽くされている(写真上)
それにしても、すごい盛り上がり方。。。。。
さすがブラジリアンだ、、、、、ノリが良い、、、♪♪♪
この教会よりさらに中心に近い「セー広場」に近づくほど、道は人でごった返している、、、
広場の周りでは所狭しと屋台が並んでいて、コンサートをやってるステージもあれば、道端で大道芸してる人もたくさんいた。
その中の一つ、「カポエラ」のダンスが大勢の人だかりを作っていた。
今までに何度か「カポエイラ」は見たことあったけど、ココのは特別ハンパじゃ無かった、、、(写真が無いのが惜しい)
ドラムとビリンバウに、タンバリン?のような楽器を合わせ、向かい合った二人のダンサーは、リズミカルに身体を宙で回転させている、、、
かと思った途端、片方の「ケリ」がもの凄いスピードでもう片方の顔面をめがけて飛んでいった、、、
しかし次の瞬間には、あざやかな側転によってその「ケリ」は紙一重のトコでかわされてしまう、、、
そうとう鍛え抜いただろう“ムッチムチ”の身体に、目茶苦茶アクロバティックな技とスピード。。。
コレだったら“格闘技として生まれた”ということが容易に想像出来る、、、と思わせるぐらい、ダンスというよりはむしろ、真剣勝負の“闘い”に近かった・・・。
むろん、カメラを撮る観光客からはせっせと“チップの回収”に励んでいたケド。。。。。
その後も、ビール片手にライブをハシゴしたり、大道芸に見とれたり、、、
それらをひと通り見終わった所で、そろそろホテルに戻ろうかなと道を歩いていたら、突然、どこからともなく「ズダンッ、ズダンッ、、、」という地鳴りのような音が響いてきた。。。
「お、いた、いた!!、、、太鼓隊発見!!!」
帰る間際になって、ようやくお目当てだった“太鼓隊”を発見した!!!
この総勢20人位からなる太鼓隊?は、下っ腹に響くほどの唸るビートを繰り出しながら、意気揚々と旧市街の石畳の上を練り歩いていた、、、
すでに後方には、大勢の観光客やら地元の子達を従えており、その前方には、ダンスの振り付け担当をしている“ティーチャー的存在”までいたのだった。。。
そのティーチャーが振り付けたダンスと、太鼓隊の繰り出すビートが妙にマッチし、なんとも言えない強烈なグルーブ感を生んでいた、、、
すかさずうちらもそこへ加わり、皆と一緒になって踊りまくった。。。
「気分はまるで、サンバカ〜ニバ〜ッル、、、、♪♪♪」
人混みにまみれてモミくちゃの汗ダクになりながら、なりふり構わず踊ったダンスは、それはもう最高に ↑ な気分だった!!!
アフリカでさえ、これほどのアフロパワーとパッションは感じとれなかったのに・・。
そのまま我をわすれて踊り狂い、かれこれ2時間近くは踊っただろうか、、、、、
すでに夜中の12時を回ろうとしてるのに、その勢いは一向に衰える気配がない。
しかも、この規模の祭りを毎週”2回”もやってるってんだから、この街の人達本当にパワフルだ・・。
その晩は、宿に戻ってからもしばらく興奮冷めやらず、なかなか寝付けない程だった、、、
毎年2月にある「サンバカーニバル」は、惜しくも間に合わなかったけど、その代わりにココでは“プチカーニバル気分”を味わうことができたので、それだけでも十分価値あるものだったと思う。。。
この「プチカーニバル」が味わえるお祭り、、、、、
サルバドールを訪れる際は、是非お見逃しのないように・・・。
February 29, 2008
地球の裏側にあるもう一つの日本
南アフリカのケープタウンを発った飛行機はヨハネスブルグを経由し、計12時間のフライトを経て、南米はブラジルのサンパウロへと到着した。
空港に降り立った時にはすでに日が暮れてたので、安全のために空港から市内へはタクシーを使って向かう事に。(ブラジルはけっこう恐い話聞くんで・・)
サンパウロ市内には「日系人」が経営している宿がいくつかあり、うちらはその中の一つ「ペンション荒木」という宿を訪ねた。
さらに、その宿の周辺は「日本人街(リベルダージ)」と呼ばれる日系人の居住区になっており、現在もたくさんの日系移民とその子孫達が生活を営んでいるエリアだった。
辺りを歩くと、日本語の「看板」や「ポスター」「のれん」などがいたる所で目につき、ある道路では「ちょうちん」なんかもデコレーションされていて、そこにはブラジルにも関わらず如何にもな「和」が醸し出されていた。
日系の人が営んでる店の店先では、「日本人」のおじちゃんおばちゃん達が、「日本語」で他愛もない話に花を咲かせている。よく観てみると、その手に抱えてる新聞も当然のごとく「日本語」のものだった。
それはとても懐かしい「日本」そのもので、そんな何気ない光景を眺めているだけで、心の奥底にあった“寂しさ”が優しく癒されるような想いだった、、、
さらに驚くべき事に、この辺りのスーパーに並ぶ日本食材の豊富さといったらそれはもう・・・。
日本米、日本野菜、醤油、味噌、みりん、鰹節、わかめ、おたふくソース、豆腐、納豆、煮干し、梅干し、漬物、うどん、そば、そうめん、大福、せんべい、カップラーメン、カレールー、ふりかけ、のり、寿司、サンマ、ししゃも、等々、、、、
恐ろしいほど、ホントーになんでも揃っちゃう。。。
例えば「ふりかけ」だけで、ゆうに30種類近い品揃えはあった・・。
(ふりかけって、日本でもこんな種類あったっけ、、!?)
これには二人とも目を輝かせて大ハシャギ。。。。♪♪♪
そこで、つい興奮してその品揃えをカメラに収めてたら、、、
「すいません!!写真は遠慮ねがいます!!!」と、
店員のおばちゃんに注意されてしまったのだった・・・・・。
(ゴメンナサイ。。。。。。)
殆どが輸入物だけあって、値段は日本に比べると1〜2割程高いんだけど、「日本の味覚」が恋しくて堪らないうちらは、値段うんぬんの前に「喉から手が出ちゃってた」から仕方がない。。。
1割だろうが2割だろうが、ココゾとばかりに買い漁っちゃったのは言うまでもないでしょう・・・・・(嬉)
数日後、うちらは日本人街からは少し離れた所にある「鹿児島会館」へ宿を移した。
そこは鹿児島の県人会の方々が運営している「海外版県民館」のようなもので、本来は「鹿児島から移民した人達の為に使用されている」建物だが、研修や行事などがない期間は一般の旅行者にも泊まらせてくれるという、うちらのような旅行者には何とも有難い存在だったのだ、しかも格安で。。。
敷地内には「プール」や「卓球ルーム」、ロビーには歴代会長さんの顔写真や、熊本らしく「西郷さんの銅像」や戦国時代の「鎧兜」なんてものまで飾ってある、それはずいぶんと立派な建物だった。。。
ある晩、一緒にそこへ泊まっていた旅行者の「10年夫婦さん」(写真右上)と共に、一件のある飲み屋へ行くことになった。
その名も「津軽」という飲み屋は、昔ながらの赤ちょうちんを思わせるような雰囲気で、カウンターの中にいる70歳くらいの日系1世のおばちゃんが一人で営んでいる、というこじんまりしたお店だった。
ここでは「アジの刺し身」やら「ラーメン」やら「焼きそば」なんかを堪能させてもらい、久々の「日本の味」に舌鼓を打たせてもらった。
夜が更けてくると、狭い店内は何処からともなくやってきた日系の常連客で一杯になった。
みんな気さくな人ばかりで、一介の旅行者である僕達にも親しみを持って接してくれた。
酔いがまわり場が盛り上がってくると、自然と懐かしい「カラオケ」なんかも始まった、、、(もちろん日本の歌♪)
自分も勧められるがまま、久々に「島歌」なんかを歌ってだいぶ気分が良くなっちゃった所で、、、
うちらがお世話になっている「鹿児島会館」の園田会長さんが登場した。
お会いするのは初めてだったけど、とても気さくなで、旅人に対しても非常に寛容だった。
酔った会長さんは僕たちに色々な話をしてくれた。
移民当時の話やそれからの苦労、そして現在の日系人とブラジル人の関係などについてなど、貴重な生の話を聞かせてもらった。
そこには戦前のまだ情報が乏しかった時代に、遥か地球の裏側へ未来を託した人々の、切々とした想いを感じ取ることが出来た。
込み入った歴史については「移民資料博物館」で、少しながら学ばせてもらった。。。
戦前、まだ日本が今ほど豊かでなかった時代、日本各地に住んでいた貧しい農村の人々が、当時「コーヒー農園」の労働力として移民を受け付けていた南米へと、夢と希望を抱きつつ遥か海を渡っていったそうな。。。
しかし、実際の生活は思っていたほど楽なものではなく、まずは険しいジャングルの状態から人の手一本で土地を切り開いてく、という気の遠くなるような仕事からその生活は始まったそうだ。。。
さらには、日本にはなかった“未知の病気”や“ジャングルに潜むどう猛な生物”、さらには“言葉の壁”や“食生活の違い”などにより、その生活は苦難の連続でもあったよう。。。
だが、そんな困難を乗り越えていく日々の中にも、元来日本人が兼ね備えている「誠実さ」や「我慢強さ」といったような“気質”が、次第に発揮されていったという・・。
結果的に、その積み重ねの甲斐あって全くの異文化だったブラジルの人達にも、その存在を“認めて”らえるようになったらしいのだ。。。
最初は農業から始まった仕事も、その農業で得た資金を元手に「農業」から「小売店」、次は「小売店」から「工業」、さらに「工業」から「金融業」などへ、と賢く事業を展開させていったようだ。
さらに、その子孫である2世、3世は、その勤勉さから、比較的社会的地位が高い職業につくケースが多いらしく、政治家、弁護士、医者、芸術家など、幅広い分野に渡って進出しているそうで、ブラジルに与えた“功績”は計り知れないほどだそう、、、
他にも、60年代以降多くの日本の企業がブラジルに進出した際に、これらの日系ブラジル人が作り上げた「日本人は勤勉」「日本人は信用出来る」という国民性イメージが“その進出を容易にした”と、高く評価されているとのこと。。。
しかし、それも70年代以降になると、ブラジルが過度のインフレに見舞われるなどした為、逆に経済成長を遂げていた日本へ出稼ぎに繰り出す、といった「逆輸入」的な逆転現象も起きてしまっているという、、、
その「出稼ぎ」にしても、見た目には日本人と変わらない日系人だが、実際には「言葉の問題」や「差別」などの壁にぶつかってしまい、中には犯罪に手を染めてしまう者も少なくないとのこと・・。
「日系人」と言っても、その子孫の2世、3世となってくると日本語が殆ど話せないという人も結構な数いるようなのだ、、、
ちなみに1908年から始まった移民は今年で100周年にあたるそうで、日本、ブラジルの両国ともに様々な催しが開催されているそうです、、、
そもそも、、、
「今までこんなに沢山の日本人がブラジルに移り住んでいた」
という事すら殆ど知らずにいたのだったが、、、
自分の無知さを恥じるのと同時に、改めて「日本人」という国民(民族)であれた事を「誇り」に感じてしまってる姿も、少なからずそこにはあった。。。
当時の「移民」という手段は、きっと単なる「逃避」だったワケじゃなく、あくまでも生活を掛けた「挑戦」だったハズで、その結果が「もう一つの日本の文化」という形で、地球の裏側という条件にも関わらず、厳しくもたくましく育まれ続けていたからだ、、、
(あのスーパーの豊富な品揃えは、当時の人達の汗と涙の結晶でもあったんだねぇ。。。)
ということで、ここサンパウロに来てようやく、、、、、
「地球の裏側には100年前からもう一つの日本が存在していた」
という事実を知ることになったうちらなのでした・・☆
(日本バンザ〜イ!!!!!)

February 24, 2008
アフリカの旅を終えて
ケープタウンではレンタバイクを借りてツーリングにも出かけた。
目指すはアフリカ大陸最南端にある喜望峰だ!!!
途中寄った「ボルダーズビーチ」では、ペンギンと一緒に記念撮影をした。
このペンギン達のあまりのカワイさゆえ、ゆりがどうしても「触りたい!」と試みたが、50cmくらいまで近づくと猛烈なクチバシ攻撃を浴びせられてしまった、、、
見かけによらずけっこう凶暴なので触ることはできなかったけど、目の前で“ヨチヨチ”と体を横に揺らしながら歩くその姿はホント〜に愛くるしかった。。。
バイクは、いよいよアフリカ大陸最南端にある「喜望峰」に到着〜!!!
と思いきや、、、
本当の最南端はケープタウンから東に150kmほど行った「アグラス岬」というトコらしい、、、(残念)
帰りは景色が良いと有名な有料道路を通って帰ってきたのだが、ココの見晴らしは本当に素晴らしかった。。。
まるで車のコマーシャルにでも出てきそうな壮大なロケーションの道が、延々と続く、、、
他にも、「ダチョウの飼育園」なんてトコにも行ってみた、、、、、
そこでは、大きな成鳥に混じって、まだ小さなダチョウの子供達(それでも結構デカイ)が、群れになって必死にエサをついばんでる姿を見ることが出来た。
にもかかわらず、この日の夕食は「ダチョウのステーキ」だった。。。
もちろん、こんなカワイイ姿を見た後に「食べる」ってのは残酷な気もしたけど、昨日のうちに買って来てしまってたからには食べない訳にはイカンでしょ、、、ってことで責任もって食しました。。。。。
南アフリカではダチョウの肉は良く食べられているポピュラーな食肉で、その辺のスーパーでもごくごく普通に売られていた。
その肉は低脂肪・低カロリーかつ栄養価も非常に高いので、身体にはとても良いらしい、、、
見た目は“牛肉”っぽいんだけど、味は“鳥”に近かったカナ。。。。
クサ味は殆ど無いかわりに、肉質が赤身なので火を通すとややパサついてしまった、、、
まぁ味はともかくとして、その身は謹んで栄養とさせて頂きました。。。。。
アフリカでの最後の仕事だった南米へ向けての航空券やビザ取りの手配が無事終わり、同時に僕らのアフリカの旅もようやく終わった・・・。
正直いうと結構シンドかった旅路も(特に治安)、ようやくココで終えることが出来るかと思うと、ホッとして全身の力まで抜けそうな想いだ、、、
しかし、「アフリカは危ない」と散々言われてたにも関わらず、実際うちらが会ってきたアフリカ人達は、危なさからは程遠い人達ばかりだったような気がする。
基本的に、子供のように“ピュア”で“無邪気”な人達ばかりだったからだ、、、
それでも、場所によっては笑えない思いもしたし、同じ宿に泊まってた人がすぐ近くで“強盗”に遇ってしまったなんて事もあったりした、、、
そんなアフリカという環境にあって、幸いうちらは危険な事件にも巻き込まれず、無事にアフリカ大陸の旅を完遂できたということは、本当に本当に有り難い事だと思っている。
手つかずの自然に生きる野生動物の本来の姿、、、、、
人間のルーツがあると言われてる地への回帰、、、、、
遠い憧れの海で味わった波との一体感、、、、、
このどれもに言葉にならない感動があった。
そんな数々の体験をさせてくれた“厳しいけど優しい”アフリカに、ようやくありがとうを言える時が来たようだ。。。
アフリカの全てに、、、
“ アサンテサーナ ” (ありがとう☆)
February 22, 2008
ミューゼンバーグでの日々
その日は、ケープタウンの宿に殆どの荷物を置いたまま、列車で50分ほど行った「ミューゼンバーグ」という“波乗り”で有名なポイントへとショートトリップに出掛けた。
ミューゼンバーグの駅は、惚れ惚れしてしまうほどの海の目の前にあり(上左写真)、予約していたホテルの部屋も窓から水平線が一望出来る角部屋(上右写真)という、“コレ以上ない”ってぐらい波乗りするには申し分ない環境だった。
到着して早々、宿の下にあったサーフショップで“ボード”と“ウェット”を借りて、さっそく波乗り開始ー!!!
この辺りは南極からの海流が流れ込む為、気温は高くても海の中はフルスーツが必要なほど冷たかった、、、(写真上左)
まぁ波自体は期待してた程は良くなかったけど、久しぶりにキレイな海で思う存分波乗り出来ただけでもう幸せ一杯。。。
けど、久々の波乗りは腕もあがらなければ肩まわりもギシギシ、という何とも情けない状態でもあった、、、
翌日は、波の形は良かったけどサイズがイマイチだったので、ロングボードを借りることに。
すると、昨日のショートとはうって変わってパドリングは楽だし、テイクオフも段違いに簡単だ。。。
(コレって、俺の身体は完全に“ロング向け”になってしまったってコト・・!?)
それと、この日はいきなり海面から顔を出してきたアザラシに驚ろかされた。。。
その次の日も、朝7時ぐらいには自然と目が覚める。
最近朝が早かったお陰で、自然と早く起きるクセがついてるようだ。
部屋のカーテンを開けると、朝の太陽が海に反射してキラキラ眩しい。。。
(なんてキモチのイイ目覚めなんだろう・・・・)
朝食は、牛乳にコーンフレークとムーズリーを混ぜたものに、フルーツを合わせた。
それを、テラスで海を眺めながら時間をかけてユックリ味わう。。。
こんな朝の過ごし方が理想に近い、、、
しかし肝心の波のほうは、風が強くて面が荒れ気味だからロングでもちょっと厳しそう・・。
でも次の瞬間には「よし、昨日までの疲れも残ってるし今日は休息日にあてよー!」と、気分をシフト。。。。。
午後は、近くのサーフショップを覗いたり、スーパーに夕食の買いだしに行ったりしてのんびり過ごす。
その次の日も相変わらず波は良くなかったので海には入らなかったけど、ゆったりとした海のリズムに合わせ、穏やかでメローな一日を送った。。。
(う〜ん、、やっぱり海のリズムってのは気持ちがイイ。。。)
結局、メチャクチャ楽しみにしてたわりには波乗り出来たのたったの二日だけだったけど、、、
『南アフリカで波乗り!!』という自分にとっての一つの夢が成就したってコトだけで、全ては満ち足りた気分だったのだ☆
February 17, 2008
ザ・テーブルマウンテン
その日は目覚ましが鳴らずに9時に起床・・。
晴れたらテーブルマウンテンに行く予定だった。
そして、皮肉にも天気は雲ひとつない“快晴”、、、
(もっと早起きしなきゃならなかったのに。。。)
急いで仕度をし、慌ただしく朝食を済ましてからすぐに宿を出発した。
途中、水と昼飯用のパンを買い込み、あとは遠く建物越しにそびえる“テーブルマウンテン”を目指しひた歩く。。。
すると20分も歩かないうちに、運よく地元のカップルが「途中まで乗せてってあげるよ」とやさしい声を掛けてくれた☆
うちら別に“歩き”こだわってたわけじゃないので、もちろん甘えさせてもらうことに・・・。
一応、このカップルのお陰で“寝坊した分”は盛り返すことが出来たハズだったのだが、、
それでも、山頂までの道程は想像以上にツラく険しいものだった。。。。
汗だくになりながらようやく辿りついた山頂では、まるで綿アメのような分かりやすい雲と一緒に、眼下に広がるケープタウンの町並にと、遥か遠くには大西洋とインド洋が交わるという様を拝むことが出来た、、☆
けっこう大変だったけど、この景色が拝めるのなら苦労して登った甲斐はあったというもの。。。
そしてこの帰り道、“今日は頑張った”という事にかこつけて、宿の近くのスシバーにて念願の「寿司」を奮発してしまうのだった・・・。
1年ぶりに食べたサーモンの味は、、、、、、、
February 14, 2008
アフリカじゃないアフリカ
アフリカ大陸最南端に位置する国、うちらにとってアフリカの旅のゴールでもある「南アフリカ」へ、ようやくたどり着いた。
アフリカ特有の赤茶けた大地にとってかわり、ボツワナ辺りから急に整備の行き届いたアスファルトの道路や高いビルが見られるようになってきた。
南アフリカに入るとそれがさらに顕著に現れ、欧米並に整えられた町並みと、そこの住む住人だろう白人の姿までチラホラ見かけるようになったほどだ。
プレトリアは南アフリカの首都に当たる街で、うちらはまずこの街に荷を降ろすことにした。
以前はココから約50Kmほど離れた場所にあるヨハネスブルクが首都だったのだが、世界一と言われるほどの治安の悪化が原因で、大手企業や各国国際機関が撤退してしまった為に、このプレトリアが首都になったという話だ。
プレトリアも決して安全とは言い切れないが、郊外に少し行った白人が多く住むエリアでなら、比較的安心して夜でも歩くことは可能だった。
プレトリアの次は、バスでケープタウンへと移動した。 うちらが乗ったバスは、途中ヨハネスブルクを経由した為、窓越しに少しだけその様子を見ることができた。
そこには、以前首都だっただけあって立派なビルが建ち並んではいるものの、中にはしばらくまともに管理もされず廃墟と化したようなものも目立つ。
行き交う人もほぼ黒人の姿しかなく、みんな一様にどこか暗い表情を漂わせており、とてもじゃないけどバックパックなんて背負って歩ける様子ではないのは一目瞭然だった、、、
ヨハネスとは対称的に、ケープタウンの雰囲気は驚くほど明るく開放的。街並みは先進国となんら変わらないほど綺麗に整っており、かつ洒落ているのだ。
店頭に並ぶ輸入物の品揃えもアフリカ一なんじゃないかと思うほどで、公用語も英語のうえに白人の数も今までじゃ考えられないぐらい多い・・。
しかし、久しぶりに見る白人の姿に“ホッと”しつつも、同時に「ここは本当にアフリカなのか?」という根本的な疑問まで沸いてきた。
白人の多さや町並みの端正さもさることながら、この国は「アパルトヘイト」という、国家ぐるみの人種差別が公然と行われてきたという歴史的背景がある。
今ではその非人道的な政策も過去のモノと言われているが、町を見渡してみれば、ゴミ掃除などの仕事に従事してるのは決まって黒人だし、ホームレスやストリートチルドレンなどにしても、やっぱり黒人が圧倒的に多い。。。
少し郊外へ行くと汚いバラックが密集した黒人居住区があるのだが、そのエリアの粗末さたるや白人が住んでるエリアと比べると、とても同じ国とは思えないほど雲泥の差がある。
街中では、確かに白人と黒人が仲良く歩いてる姿も多く目にした、しかし、その一本裏通りでは明るいうちから虚ろな目でシンナー吸ってたむろしてる黒人だけの子供達も存在する。
結果的にそのお陰で今の経済発展がある、、、という言い分も確かに一理あるんだろうけど、だからといってアフリカにいながらにして黒人を含めた“アフリカらしさ”の一切を排他しようとしてしまったやり方というのは、如何なものだったのだろうか、、、
世界一とまで言われるほどに悪化してしまったヨハネスブルグの治安の悪さが、その反動によって生じた負のエネルギーの強さを物語っていることは容易に想像出来そうだ。
逆にそういった歴史背景を土台に、新たなカルチャーが生まれている兆候も感じることも出来たには出来たけど、、、、
それでも、、、「ここはアフリカであってアフリカじゃない・・」 という違和感は、結局最後の最後まで拭い切ることは出来なかった、、、
しかし、アフリカの白人支配の現状を考えるうえでは、ここは最も“リアルなアフリカ社会”の姿なのかもしれないですが・・・。
February 10, 2008
ビクトリアフォールズ
ザンビアにある『ビクトリアフォールズ』の拠点になっている街リビングストーンにやってきた。
ビクトリアフォールズはザンビアとジンバブエの国境に面してる為、どちらの国からでも観れるのだが、ジンバブエの経済は今だ“ハイパーインフレ”という状態の為、面倒臭そうなんでザンビア側から観ることにした。。。
ジンバブエのインフレは2000年頃から始まり、それ以降毎日のように物価が変動するほど非常に不安定な状態が続いているそうだ、、、
出回ってる紙幣には“使用期限”なんてモノが設けられていたり、国が定めた公定レートと市場(闇)レートの両替差が数倍もあったりと、、、
しまいには、世界最高額紙幣“1000億ジンバブエドル札(ゼロが11コ、、)”なんていう、訳の分からない紙幣まで出現しており、はたから見てると有り得ないようなハチャメチャっぷりだったのだ。。。
旅行者にしてみれば、公共の金融機関や銀行やATM、クレジットカードさえ使わなければ特に問題はないのだが、それが原因で全体的に物資が不足していたり、治安が悪化してたりとの影響もあった。
自分としては、その状況を実際に“目の当たりにしてみたい”気もしたのだが、直前になってもあまり気乗りしなかった為、お隣の国「ザンビア」へと迂回することにしたのだった。。。。。
でっ、、、肝心のビクトリアフォールズはというと、、、、、
うぷぷっっ。。。。しぶきが凄くて前がよく見えない。。。。。。。
全身パンツまでびっしょり。。。。。。。
この時期は水の量が多いのか、とにかくしぶきが凄くてあまり前が見えないほどだったが、そのお陰で“虹”は綺麗にクッキリ見えた♪
虹が水平以上に220度ぐらいまで繋がって見えたのは今まで初めてだった。。。
さらにタイミングによってはキレイな2重に重なることもあった。。。。。
「川という全体から個となった水滴達が、風と遊び太陽に共鳴して生まれた虹という名の光の調和」
この自然現象は、まさに宇宙が織りなす“美”そのものでした・・。
February 08, 2008
ンガタベイ
マラウィーにある「ンガタベイ」と言われるこの街は、マラウィー湖の湖畔にある小さな村だ。。。
見所は、、、、、、、、
特にナシ。。。。。。。
ま〜言うなれば、この湖畔に建つバンガローの環境そのものが見所といった感じだろうか、、、
うちらが泊まったバンガローは手作りだったから、見ようによってはボロいんだけど、それがまた良い味になっていて居心地はなかなかのものだった。
特に立地が素晴らしくて、テラスからそのまま釣りが出来ちゃうほど湖ギリギリに建っていた。
さらに、そこではアフリカンジャンベ(太鼓)を作っていて、嬉しいことに滞在してる間は好きなだけ貸してくれた。
眼前に広がるのどかな湖の様子を眺めながら、久々に思う存分ジャンベを叩きまくった、、、♪♪♪
おまけにココには犬と猫が大量に居るのだが、彼らの馴れ馴れしさと図々しさといったらそれはもう、、、
憎ったらしいほどカワイイのだ。。。
完全に警戒心ゼロ。。。
もう野生では完ぺき生けていけないだろう。。。
壁の透き間から勝手に部屋に侵入して、ベッドの上で我が物顔で寝てたり、気持ち良さそうにテラスで日向ぼっこしてる姿が日常の光景と化していた。
食事は、村の食堂で食べられるナマズの煮付けのような食べ物が、見た目とは裏腹に脂の乗った青魚のような味で、メチャクチャ美味しかった☆☆☆
横の白い物体の正体は「ウガリ」なのだが、うちらがケニヤで食べたものと少し違っていて、ココのは粘りが強くてどちらかというと日本のモチに近かった。
練りたての熱々をおかずと一緒に口に放りこむと、これがまた予想外にウマイのだった☆
庭の木になってるマンゴーを採って食べたり、、、
夕日を眺めながらジャンベに没頭したり、、、
パンツ一丁で湖を泳いだり、、、
犬や猫とジャレ合ったり、、、
だいぶユル〜い生活だけど、これもまた充電期間ってコトで・・。
February 04, 2008
してやられたり・・・
タンザニアの首都ダルエスサラームから、マラウィとの国境にある「キエラ」という町に向かうため、まだ暗い中朝5時にホテルをチェックアウトした。
ホテルの入り口を出ると、こんな早朝にもかかわらずバス会社のスタッフがうちらを迎えに来ていた。
そのスタッフからは、昨日チケットを買う際に、、、
「その時間まだこの付近は危ないから俺が迎えに行ってやるから!!」
、、、と言われていたのだ。
しかし、時間が時間だし、てっきり体の良いセールストークかと思っていた。
バスの代金は既に昨日のうちに全額払い終えている。
「この会社、うちらにこんな事して何かメリットあるんだろうか?」 と、
やや引っ掛かってはいたものの、とりあえずそのスタッフが用意したくれてたタクシーでバスターミナルに向かった。
ターミナルに到着するや否や、そのスタッフは「昨日買ったチケットを貸してくれ」と言って、うちらをタクシーに待たせまま目的のバスを探しに行ってくれた。
そのお陰でバスもスムーズに見つかり、そのうえ丁寧にもバスの車内まで乗り込んで席まで案内してくれるというフォローぶりだった。
最後に、タクシー代の釣りをまだ返してもらってなかったから要求すると、
「そこでくずしてくるからココで待ってろ、問題ない俺を信じろ!!」と言う。
面と向かってそこまで言い切ったからには、、、
と、また物好きにもこのスタッフを少し信じてみようと思い、言われた通りバスの中で待ってみることに。。。
だが、待てども待てどもそのスタッフは一向に戻ってこなかった・・。
やがて出発の時間を迎え、バスは静かに動き出した、、、
(ハァ〜、信じた俺がバカだった。。。。。)
さらにしばらくしてから、ゆりがチケットに書いてある値段が昨日とは違う事に気がついた。
うちらは昨日一人37500Tshを払い、チケットにも確かにその金額が書いてあったが、今持ってるチケットに書いてあるのは25000Tshとなっていた。。。
その差額12500Tsh。これは二人で2500円相当にあたる額だ。
ここの物価を考えたら2500円っていったら結構でかい・・。
その段階で真意がようやく明らかになったのだが、わざわざスタッフがターミナルまで一緒について来たのは、昨日発行したニセチケットと今日新たに買った本物のチケットをすり替える為だったのだ・・。
しかし、スタッフのアフリカン一人でコレを思いついたとは到底思えない。
「!!!。。。この巧妙な手口はきっとあのインド人ボスが仕込んだに違いない・・」
実は、そのオフィスのボスって奴はインド人で、昨日会った瞬間からうさん臭いオーラをプぷんぷん発していたのだ、、、
それにしても、今回の手口は本場でもなかなかお目に掛かれないぐらい、やり口といいタイミングといい全てが絶妙だった。
ただ一つだけ、、、
「支払いが済んだ客、しかも二度と会うことのないだろう外国人客を、こんな時間にわざわざターミナルまでエスコートするメリットなんて無いハズ、、」という事だけが唯一不自然だった。
こっちはあくまで善意でやってくれてると思いたかったが、後から考えたらそれは『インドじゃまんまと騙されるポイントになっている』という事を思い出した。
しかも、これがインドだったら絶対怪しむと思うのだが、ここはタンザニア!!
ついてきたのもチケットを買ったトコのスッタフだったわけだし、、、
(今になっては本当のスタッフだったか知る由も無いが。。。)
くぅ〜、、、まさかこんなトコに来てまでインド人にしてやられるとは・・・
いっそのこと、チケットの金額が違うコトなんか気づかない方が幸せだったかもしれない、、、
(あ~~~~ムカツク。。。。。)
※ちなみにタンザニアにはインド人が非常に多く、当初出稼ぎにやってきたインド人は、今ではタンザニアの経済を牛耳るほどの存在だそうです。皆さんも商売熱心なインド人には十分お気をつけを・・。
February 02, 2008
最後の楽園
朝8時に起き、近くのローカル飯屋でパンとチャイの朝食を摂る。
バスターミナルでは結構長いこと待たされ、10時頃になってようやくダラダラ(乗合バス)が出発した。
途中、何度も停まり人や荷物の乗せては降ろしが繰り返される。2時間近くかけようやく目的地の「パジェ」に到着した。
タンザニアの首都ダルエスサラームより船で約3時間程行ったところにある島「ザンジバル島」 、別名“最後の楽園”と噂されるこの島、、、
そこは、行った事のある人なら必ずといって言いほど「良かった!!」と感想を漏らしていたトコだったのだ。。。
船が港に到着すると、その目の前に広がっている街が「ストーンタウン」。
ここには3泊だけして、今朝島の反対側にある目的の地「パジェへ」と移動してきた。
ダラダラを降ろされたトコにたまたま居たおっちゃんが、親切にも「パラダイスビーチバンガロー」に電話してくれたおかげで、そこまでスタッフが車で迎えにやって来てくれた。
“パラダイスビーチバンガロー”というのは日本人沙織さんという女性が営んでる宿で、その人柄もあってか「すこぶる居心地が良い」と評判だったのだが、、、
思ってた以上に面倒な思いをして来たにもかかわらず、残念ながら肝心の沙織さんは一時帰国してしまっていた。。。
しかし、例え沙織さんが居なくとも、宿そのものも期待を裏切らない立派なものだった、、、☆
私たちのバンガローは茅葺き屋根のナチュラルな風合いを生かした素敵な作りで、背の高いヤシの木々や色とりどりの植物に囲まれながら海の真ん前にたたずんでいた。
それはビーチまで徒歩“3秒”という、またとない立地!!
人懐っこい島の住人に、まっ青な海と真っ白な砂浜、それからまるまる太ったマンゴーに海から吹きつける爽やかな風、、、
(フゥ〜・・・島の空気はやっぱり心地が良い。。。。。)
初日にして早くも「あ゛ぁ〜来て良かった〜〜!!!」と、感無量の喜びが全身から溢れだす。。。
それにしても、ココは海以外にホンッと何もない、、、、、
だから、朝からこれといって特にすることがない、、、、、
でも、ソレが良いのだ。。。。。。。。
こんな綺麗な海を目の前にして、他の事に気を奪われてるほうが勿体ないというもの、、、
夕食時に奮発して食べた魚料理や伊勢海老は、南国特有のスパイスとココナッツが効いてて本当においしかった☆☆☆
夜はハンモックに揺られながら夜空に瞬く流れ星を数える。
そこには人工音などまったく無く、自然のままのサイクルがただ在りのままにゆったりと流れていたのだった、、、
こんな生活を4日間送った。。。。
まさに「最後の楽園」の名に恥じない素敵なトコだった。
ハードなアフリカの旅路の束の間、心からリラックス出来た“夢見心地なひと時”を味わせてもらいました。。。
January 26, 2008
サファリツアー
暴動続きのケニアを早々に抜け、次にやってきたのはタンザニアのアルーシャという街。
ケニアでサファリに行けなかったかわりにココで申し込むことになったのだが、それが高いのなんのって、、、
ケニア(ニューケニアロッジのツアー)では、1人[US75ドル/日]前後で済むところが、ココでは1人[US130ドル/日]もする。。。
しかも最低3日からと言われてしまったから、これが二人だと結構な額になってしまうのだった、、、
しかし、ココまで来ておいて“サファリ”に行っとかないと、何の為にアフリカくんだりまで来たのかが分からなくなっちゃう・・。
ということで、ココは潔く申し込んできました。。。。。。。。
★★★★★ タンザニア3泊4日サファリツアー ★★★★★
4日間で計4ヵ所の国立公園に行ってきました〜!!!
【1日目】・・・マニヤラ湖ナショナルパーク
【2日目】・・・セレンゲティナショナルパーク
【3日目】・・・ンゴロンゴロナショナルパーク
【4日目】・・・タランギーレナショナルパーク
うちらの申し込んだツアー会社では、宿やテントその他に必要なものは全て会社側で用意してくれた。
一緒になったメンバーはというと、うちらの他にチェコ人の2カップルとガイド兼ドライバー+コックの計8人。
仕度も整い、それではいざ出発〜〜〜!!!!!
(写真右)うちらのジープを見るなり、モーレツな勢いで駆け寄ってきたバナナを売りのおばちゃん達。。。
【1日目】 マニヤラ湖ナショナルパーク
一番最初に発見した動物はサル。
でもあんまり感動はないかな、、、
だってサルだもん・・・。
そのあと観れたのは、キリン、ゾウ、バッファロー、バンビ、インパラ、カバ、イボイノシシ、ペリカン、その他にも名前も知らないような動物達、、、これにはマジで感動☆
初日にしてはなかなか上出来だったと思う。若干天気が悪いのが惜しかったけど、、、
それにしても、自分が小さいころからTVで何度も観てた“アフリカのサファリ”に、今自分がこうして実際来てることを思うと、それだけで感慨深いモノがある。。。
無事初日も終わり、夜は見晴らしが最高のロッジで皆と美味しい夕食を食べた、、♪
【2日目】 セレンゲティナショナルパーク
8時に朝食を食べ始め、10時近くになってからようやく出発、、、
それにしても片付けと準備がチンタラしすぎな気がする。。。
サファリって朝が勝負のはずじゃなかったっけ・・・!?
しかも、今日観れたのはキリン、シマウマ、ヌーの大群だけ、、、
それと、マサイ族が槍を持ってウロウロしている姿も。。。。
(彼らはナショナルパーク内に住んでいます※写真上左)
とにかく、あまり時間がなかったせいでそのぶん見れた動物も少なかった。
というより、どう考えてもガイドが起きるのが遅いせいで、出発自体も遅くなり過ぎたのだ、、、
あげくの果てに、ガイドのクセに道に迷うこともしばしば。。。
今日の宿泊先はボロくてちっさい2人用のテント。。。でも、張る場所が絶景のポイントだから朝は気持ち良さそう、、、(写真上右)
そんなことを思いながら夕食の仕度を待ってると、今日の仕事ぶりに業を煮やしたのか、チェコ人4人が一致団結してガイドのジョージにブチ切れはじめた、、、
チェコ人 「明日は6時に起きて朝食後、6時半には出発だー!!!(怒)」
ジョージ 「ハァ〜6時、、、!? そんな無茶な〜、、、、、」
みたいなやりとりが、食後まで延々と続いた。。。。
一応、私達も同じグループなので話し合いには参加したのだが、、、
うちらとしては正直、、、
「だったら、あんたらもあんたらで何でしっかり前日までにスケジュール確認しないのさ〜っ、、、」と言いたいところだった、、、
しかしうちらは、実のところ3日間分の料金で4日間のツアーに参加していた為、あまり強くは言えなかったのです。。。(苦笑)
最初に旅行会社で申し込んだ際、私達は2泊3日で十分だろうと思って申し込んだのだが、このチェコ人達はどうしても3泊4日行きたいということで、当日になってから追加の1日分は旅行会社の計らいでタダにしてもらっていたのだ。
(もちろんこの事をチェコ人達は知りません。。。。。)
この口論は深夜まで続いたが、いい加減疲れ果てた私達はさっさとテントの中へ、、、
【3日目】 ンゴロンゴロナショナルパーク
昨晩の話し通りジョージもしっかりと朝6時には起き、朝食の分をランチボックスにし「暗い・寒い・眠い」の三拍子揃ったなか、半ば強引にジープに乗り込んだ。
今日のポイントは「クレーター」といわれる巨大な噴火口跡だ。
このポイントは今までの中で一番見ごたえがあるトコだった。このエリアには今まで人間が住んだ歴史が無いために、動物たちの本来あるべく“生き生きとした姿”が完全な手付かずの自然の中でかいま見るコトが出来た。
今日見た新たな動物は、ライオン(雄雌)、ハイエナ、サイ、ジャッカル。中でも百獣の王「ライオン」をかなり間近で見れたってことで、このサファリではもう言い残す事はない。。。
この、攻撃的な自然剥き出しの“サバンナ”と、いまだかつて見たことないほど動物達が“生き生き”と躍動している姿、、、
正直、高すぎるあまりそんなにテンションの上がらなかったサファリツアーだったけど、もうその光景を目の当たりに出来ただけで「本当にアフリカまで来て良かったなぁ」と素直に思った。。。
思いのほか村の人々は観光ズレしてなく、こちらが挨拶をすると、決まって「ジャンボッ!」挨拶を返す、と恥ずかしそうな笑顔が印象的だった。。
生活水を汲みにきた少年達(写真左)
【4日目】 タランギーレナショナルパーク
今日も8時ぐらいからのんびりと朝食を食べ始める。
昨日たくさん動物を見せることが出来てもう満足してしまったのか、ジョージは今日も朝が遅い、、、
っていうかよくよく考えたら昨晩から見てないし。。。。。
朝食後、とっくにみんな準備は出来てるというのに、肝心なドライバーが車ごと行方不明・・・。
1時間ほど待ったところで、ジョージはようやく戻ってきた、、、
そのせいで、結局出発したのは10時頃、とまた遅くなってしまうのだった、、、
最終日の今日は新たな動物は見れなかったけど、その代わりに「バオバブの木(写真左)」を大量に見れた。
そして午後になってから、チョコ人とジョージがまたモメだした。。。
「このNPにはたった3時間しか居れなかったうえに、まだ端っこにしか行けてないんだからそれじゃ終われない!!」と、チェコ人の主張。
しかしジョージも、「今更それは出来ない!!!」の一点張り。。。。。
『行け!、行けない!!、行け!、行けない!!、行け!、行けない!!、、、、、、』
って、だから今朝も早く出ときゃこんな面倒な問題起きないのに〜。。。。。
昨日あれだけ怒っていたチェコ人は、今日はさらに火に油を注いだように“カンカン”だ、、、!!!
そりゃ〜そうだろう、、、、、、、
ジョージも一昨日それで揉めてんのにまた同じことやってるし。。。
ホントに大したものだ、ココまでくると流石としか言いようがない。。。。。
うちらは、そんなやりとりを横目に 、、、
「でも、チェコ人も土壇場になってそんだけ怒るんだったら昨日のうちにちゃんとスケジュール合わせとけば良かったのに・・・」
「でも、うちらはうちらで3日分の金しか払ってないから他のメンバーほどムキにならずにすんでるけど、もしきっちり払ってたらそんな余裕ないんだろうねぇ・・・」
そんて事を話しながら、チェコ人には悪いと思いつつ、うちらはうちらの立場でちゃっかりサファリを満喫させてもらっちゃいました。。。。。
※サファリツアーでは最初にきっちりガイドとスケジュールの確認をしておかないと、よくトラブルが起こるそうなので予定のある方はその点ご注意を、、、
January 20, 2008
ナイロビ非常事態宣言
ナイロビ初日の晩は、久々にぐっすり良く眠れた。ベッドの有難さが骨身にしみた一夜だった。
翌日の朝は少しゆっくりしてから、午後ネットカフェへ行き、何日か振りにメールのチェックをしていた。
すると、突如ネットカフェにいた客達が、一斉に窓の外に身を乗り出し何やら騒ぎ出した。
いったい何が起きてるのかと思いきや、そこでは完全武装したソルジャー十数人が、すごい勢いで多数の市民を追い回してる姿が目に飛び込んできた。
何処からともなく報道カメラマンまで現れ、そこら中で催涙弾が飛び交い、辺りは白い煙でモックモク。。。
周りに居た一般市民も、巻き添えを食わないよう必死に逃げ回っている。たまたまそこに居あわせただけで攻撃されそうな勢いだ。
その日の晩、その時の映像がニュースとしてテレビに流れた。
この騒ぎの原因は、年末にあった大統領選挙の集計に不正があったとか無いとか、、、で、それ以来こんな調子が続いているらしい、、、
このような暴動が、滞在してる間毎日のように起きた。ナイロビ自体は都会で近代的な街なのだが、そんな緊迫感もあってか、この街には何処かただならぬ雰囲気が漂っている。
別の日には、街を歩いてたら前から凄い勢いで大量の地元民が走ってきたことがあった。その後方では見覚えのある白い煙があがっている。
「また始まった!!!」と今度はうちらが巻き添えを食わないよう、地元の人と一緒に全力で走って逃げた。
ココは政府も警察も腐りきってるうえに、強盗が出たからといって周りの人は恐いからと見て見ぬフリをするような国らしい、、、
『自分の身は自分で守らなければ誰も助けてくれない』
こんな切迫した緊張感は旅に出てから初めて味わう。。。
ナイロビでは「サファリツアー」に参加しようと思ってたのだが、当然こんな状況なので、結局4日待っても全く人は集まらず、、、
この情勢はしばらく落ち着きそうもないので、仕方なくケニアのサファリは諦め、すぐ隣の国「タンザニア」へと抜けることにしました。。。
(写真左)宿の部屋から撮影した夜のナイロビ風景。人影も殆ど無く閑散としている。
(写真右)ケニアのバスはド派手★この風貌で音楽をガンガンに鳴らしながら爆走する。
January 16, 2008
地獄のローリー30時間の悪夢
朝8時頃、エチオピア側のイミグレへ向かってる途中、アジスアベバのホテルで出会った日本人、のり君とまゆこちゃんカップルにばったり出会った。
さらに、そのままケニア側の国境を越えた後、首都ナイロビに向かうローリーも一緒に乗ることになった。このローリーというのは、いわゆる日本でいう貨物トラックのようなもの。
この国境からナイロビまでの移動区間は、アフリカを旅する旅行者の間でもかなり有名で、うちらにしてもアフリカの中でも最も恐れていた移動だった、、、
何を恐れていたかというと、、、
まず、この区間は昔強盗が多発してた為かバスの定期便が少なく、仮にあったとしても未だに危険度が高いという噂がたっていたのだ。
そこで、バスの代わりとして唯一、地元の人の移動手段となっているのがこのローリー(貨物トラック)のヒッチで、これだと強盗が多発する地域を通らずに迂回ルートをとる為、比較的バスよりは安全だという。
しかし、、、
危険を回避出来るのは良いとしても、このローリーはあくまで貨物トラックなので、当然その荷台には貨物が積まれているのだ。したがって「その貨物が何なのか?」という点がうちらにとっては非常に重要なポイントになってくるのだった。
うちらが当たったローリーは、運よく豆の詰まった袋を積んでいたのでその上に乗る事が出来たのだが、運が悪いとヤギや牛などの家畜を載せたヤツに当たるらしい、、、
その場合、もちろん荷台には乗ることが出来ない。 じゃあ一体ドコに乗ることになるのかというと、荷台を囲っているジャングルジムのような鉄パイプの上、、、(写真下)
これも短時間の話なら何て事は無いのだが、どれぐらいその状態でいなきゃならないかは、ドライバーの都合や気分次第なので、正直ハッキリとした時間はうちらには分からない。
運が良くても20時間以上、運が悪ければ2泊3日とか掛かっちゃう場合もあるとのことだ。こんな最低な状況なので、この区間だけはやむ終えず飛行機を使う旅人も多い、、、
うちらも、これだけは割増で金を払ってでも助手席を確保するつもりでいたのだが、他にもっと金払いの良い上客が現れた途端、あっけなくうちらの確保した席は無くなってしまっていたのだった。。。
しかも、その上客がまだ小さい子供を連れたファミリーだったっていうんだらから始末が悪い、、、
そうなった以上、うちらも「これも運命か、、、」と潔く諦め、のりくん、まゆこちゃんと一緒に豆が満載された荷台へと乗り込んだのだった。
そのトラックには、最終的にうちらの他に地元の人が30人近く乗り込んだ。まるで難民を乗せてるかのように狭くむさ苦しい環境、、、
トラックの荷台には幌が掛かってると喜んでたのもつかの間、走り始めると幌の透き間から大量の土埃がモクモと舞い上がってきた。
それはそれはヒド過ぎて、まともに前も見えなければ呼吸も出来ないという状態が続く。こんなホロならまだ無いほうがマシだったかも、、、
さらに、道がボッコボコの荒れ地にも拘わらず運転がメチャクチャ荒く、荷台内の揺れ方もハンパじゃなかった。。。。
「衝撃で身体が十数センチ宙に飛ばされたかと思った次の瞬間には、下の固い豆袋に叩きつけられる、、、」という状態が数分おきに延々と続いた。
しばらく乗ってるとアチコチが打ち身のような状態になってきて、ゆりなんて後から全身青あざだらけになってしまったほど、、、
休憩もどのタイミングでとるのか全く分からないので、トイレに行きたくならないようあまり水分を摂ることが出来なかった。
そんな中でも唯一、幌の上からの眺めはなかなかのもので、野生のキリンやラクダを目撃するという嬉しいハプニングも、、
しかし、 夜は夜で激しい揺れに加えて、真っ暗闇のなかを地元民と密着した状態で一緒に豆袋の隙間に埋まってしまった為、とてもじゃないけど寝るなんていう状況じゃなかった、、、
「これ程ながく感じる夜が今までの人生で果たしてあっただろうか、、???」
ふとそんな事を考えてしまってる程、キツくながい夜だった・・。
ようやく夜が明けたと思ったら、今度は追い打ちをかけるように雨が降りだしてきた。穴の空いた幌からは至る所で雨漏りしだし、それにあたると体温が奪われるのでおちおち横になってもいられなかった。
途中、ポリスによる検問も何回かあり、その度に外国人のうちらは執拗にパスポートをチェックされた。
そのうちの一回は、難癖をつけられて賄賂を請求されそうになったのだが、英語が分からないフリをして何とかごまかした、、
しばらくの間、心身共に疲れきった4人の放心状態が続く・・。
何時着くかも分からない状況の中、うちらに出来る事といえば、一刻も早くこの現実に終わりがやってきてくれる事をただただ願うのみだった。
乗る前に「ナイロビには早朝ぐらいに着く」と聞かされてたのだが、結局着いたのは午後4時近くなっていた。それもナイロビの手前50kmの地点で、、、
ローリーが急に市場に入ったと思ったら、今度はいきなり積み荷の豆を下ろしだしたので「何時に終わるんだ?」と確認したところ「7時まで待ってくれ」と言い出したので、もう呆れて自ら降りたという始末、、、
ナイロビに着くのが夜になるのはかなり危険という話だ。しかし、トラックを降りたのは良いが自分らが今いったい何処に居るのかさえ分からない。
そんな状況から必死に乗合タクシーを乗り継ぎ、倒れ込むようにナイロビにある日本人宿「ニューケニアロッジ」へ到着したのであった。
この道程には計30時間ほど掛かったが、これでもうちらの場合は豆だったからまだマシだったらしい。
だからといって、、、
「もしこれが家畜だったら・・・」なんて事は今さら想像したくもない。
これは後から聞いた話だが、このローリーには家畜のさらに上をいくという「鉄クズ」という積み荷も存在するらしい、、、
家畜であれば、仮にバランスを崩して下に落っこちたとしても汚れるだけで済むのだが、それは落ちたが最後、鉄の破片が刺さって大ケガをするという話だ・・。
そんなフザけた話、うちらにとっては笑えもしないが、、、
とにかく、豆だろうが何だろうがこんな移動これっきりでもう二度とゴメンだ・・・。
January 14, 2008
エチオピア脱出計画
アルバミンチという町から、多数の民族が集まるといわれているジンカという村へ行く途中だった。
火曜と土曜に行われるジンカのマーケットには、周辺に住んでいる先住民族が物を売りに集まってくるのだ。そこでは、きっと皆さんもTVで見たことある「下唇に木の皿を入れたムルシ族」などのほか、多数の民族が実際目のあたりにできるという話だった。
その日は朝4時に起き、5時前にはターミナルに到着。 ゆりが必死の思いで確保してくれたゲロ臭いシートにゆられること4時間。。。
途中「コンソ」という町で小休憩してたときのローカルの一言でそれは決定的となった、、、
「今からジンカに何しに行くの?」
「マーケットだけど・・!?」
「マーケットは土曜だよ、、」
「えっ火曜もあるんじゃないの!?」
「ないよ、、」
「。。。。。」
マーケットは土曜の他に火曜もあると聞いていたので、うちらは何とかそれに間に合うように向かっていたのだったが、、、
この一言によって即座にジンカ行きをあきらめたうちらは、その場ですぐにバスを降りることにした。どうせなら、とそこに1泊してこうかと思ったが、よくよく調べるとココは隣町までの交通手段が週2回しかないようなとても辺鄙な村。
慌てて、たまたま声をかけて来た若者に移動手段がないか聞いてみる、、、
すると、、、
「ちょうど今からモヤレ(国境)まで行くトラックが一台あるから、それなら今日中に間に合うよ!」という事だった。
うちらにしてもジンカ行きが無くなった今、もうこんなシンドい国は一刻も早く脱出したいところ。
「料金は二人でUS25ドル・・・えっ、、、25ドル???」
この国の物価からしたら相当高い額がラストプライスだったけど、疲労からくる面倒臭さがどうしても先行してしまい、結局最後はコッチが折れることに、、、
一体どんな車が来るのかと思いきや、やってきたのは“ボロいトラック”の荷台に、さらにボロい”カローラワゴン”が積まれているという、人を乗せるには何とも風変わりなスタイルだったのだ。
「ハぁ〜、、コイツらが仕切りにトラックなのに“快適”だの“リクライニング”だのと、意味のわかんない事を言ってたのは、この荷台のワゴンに乗れって事だったんだなぁ、、、」
ま〜情けないスタイルではあるが、エチオピアのバスに比べたらオンボロとはいえ、カローラワゴンのシートの乗り心地というのは“極楽”に思えるものだった。
しかし、うちらだけのプライベートという約束にもかかわらず、途中から5人ぐらいの人間を後部座席に詰め込んできた。
で、例のごとく暑いからと“窓を開けようとする”とやっぱり怒るのだ、、、
「なんでだ!?」とワケを聞いても、ポリスがどうとかよく意味の分からない理由をつけて何とか窓を閉めさせようとするのだった。。。。。
そんな状態でドライブすること7時間、、、ようやくエチオピアとケニアの国境の町「モヤレ」までたどり着いた。
宿は何処もブンナベット(売春宿)で、安いかわりに半端じゃなくチッタナイ・・。
何軒か探したなかでも、まだ1番マシだったトコに決めたが、案の定水が止まっててココでもシャワーは浴びられなかった、、、
でもその夜は、エチオピア最後の晩にと「ぬるいビール」と「インジェラ」をしこたま頂き、ぐっすり眠りにつきましたとさ。。。。。
それにしてもぶっちゃけ、エチオピア人の脳ミソの足り・・(失礼)、、というかうちらとの“思考力の違い”には本気で驚愕してしまった、、、
それを思うと、本当に失礼な話かもしれないけど、、アフリカで唯一植民地支配を免れたというそのワケと、まったく関係ないとも言い切れないんじゃないかという気がしてならない。。。
ココまでくると逆に、どうして同じ人間なのにそれだけの“差”が生まれたのかを知りたい。。。。。
これは“エチオピア人”だけに限った話なのか、、、!???
この差は“教育程度の差”なんていう単純な理由で説明がつくのか、、、!???
それとも、遥か昔から続いてきた“人間の進化”に関ってくる話なのか、、、!???
ま〜結局それも分からず終いで、明日にはこの国を脱出してしまうんだケド。。。。。
あぁ、一体全体ナンだったんだろうなこの国は〜。。。。。?????
(写真左)うちらを見るなり“YOUー!YOUー!YOUー!”を連発し、カメラを向けてもしきりにカンフーの真似ごとしかせず勝手に暴走してた全くもってカワイクナイ子供達。。。
(写真右)町をぷらついてるとまたもや“YOUー!YOUー!YOUー!”と近寄ってきて、何処までもくっついてきたカワイイ子供達。しかし、あまりにも延々とくっついて来た為、最後はコッチが心配になって親を探し回るハメに。。。
January 10, 2008
エチオピアのバス
エチオピアでの移動は、基本的にバス移動がメインとなるのだが、それはそれは壮絶なモノだった・・。
今思い出しただけでも気分が悪くなってくる程だ、、、
ということで、今回はそのワケを一つずつお伝えしていこうと思います。
まずはバスの車体から、、、
エチオピアのバスは、殆どが一体いつ作られたかさえ判別出来ない程のボロに加え、シートの幅が「コレ完全に設計ミスだろ???」ってぐらいの狭さだった。
三人掛けのベンチシートに三人座っちゃうと端の人の尻は半分しか乗らないし、二人掛けのシートなら”ギュ〜ギュ〜”に密着して座って、なんとか座れてるのかな、、っていうレベル。
これは決して大柄の人の話じゃなくて、小柄で痩せてるエチオピア人が詰めて座ってもこんな状態なのだ・・。
もちろんリクラインニグなんてものもなく、座面はクッションがつぶれて硬いうえに、背もたれもほぼ垂直ときてる。
しかし、それより何よりエチオピアのバスは、車内がどんなに暑くたって窓を開けられないというのがツライ、、、
これは別に窓が壊れて開かないわけでも、元から開かない設計になってるというわけでもない、、、
開く窓はちゃんとついてるのに、単純にそれを開けてはならないのだ、、、
ナゼかというと、、、
「悪霊が入るから・・・・」
これは笑い話じゃなくて、ホントにホントの話。。。
それでも、子供や若い子なんかは暑さに耐え切れなくなって時々開けちゃうのだが、すぐさま後ろから年配者の手が伸び”ピシャッ”と閉められた後「バカモン!!」と一喝させられてしまうのだ。
噂には聞いていたけど、正直このご時世に本気でそんな事を信じてるワケ無いだろと、半分冗談ぐらいにしか思ってなかった。
だがしかし、実際のエチオピアでは確かにいまだ信じられている迷信なのだった。
道路の舗装もしごく当然のようにされてなく、走行中は終始、、、
”ガッタンッ×ボッコンッ×ガッタン×ボッコンッ”
「おりャーコレでもかっ、、」ってぐらい、それはそれは縦横斜めに揺れる揺れる、、、
さてここで問題です、窓を閉めきった汗と油の臭いが充満したクソ暑い車内で、こんな状態がしばらく続くと人は一体どうなっちゃうでしょう・・!?
そうです、車酔いです・・・・。
加えて地元の人は日頃からあまり車に乗り慣れてないとみえ、バスが出発して2〜3時間も経てば、ざっと半分ぐらい人が気持ち悪そ〜な表情を浮かべつつ頭をうなだれ始めます。
そこまでくると後は時間の問題で、次第に何処からともなく「ゲェ〜、、ゲェ〜、、、、」という声がこだましてきて、と同時に車内にはあの「かほり」が立ちこめてくるのです。。。
だが、それでも窓を開けないあたりがさすがエチオピア人。。。
一度、「足元がやけにヌルつくな〜、、、」と思っていたら、後ろで吐いた人のゲロが流れ出し、足元に置いといたデイパックに”べっちょり”ついてたなんて事もあった、、、
その時は「えェ〜イ、もうどうにでもなってしまえー!」って感じでさほど気にはならなかったが、今思えば、あまりの苛酷さで軽く思考回路が壊れてたんだと思う。。。
想像してみて下さい、、、
もうろうとする暑さのなか”ガッタガタ”に揺れる”ボロッボロ”のバスで”ギュ〜ギュ〜”の”ゲェ〜ゲェ〜”なのに窓も開けられないという状況を、、、
きっと、想像だけで十分なツラさがお分かり戴けたことでしょう。。。
しかし、エチオピアのバスの苛酷さはこれだけにとどまりません。。。
お次は出発時間と席の確保、、、
エチオピアのバスは出発が早い!っていうか殆ど朝しかないっ!!
よほど近い場合以外は1日1本、田舎だと1週間にたった2本しかない、なんてトコもあった。
たいがい朝の5時とか6時にターミナルから出発するんだけど、どうしても確実に乗りたければまだ星が見えるうちからターミナルの外でスタンバってなきゃならない。
けどそんなに早くても、ゲートの前にはかなりの人数の地元民がすでに集結しているのだ。
暗闇の中で見る黒人の顔ってのは、白い目と歯だけがギョロっと光り、たまにそれが同時にこちらへ向いてたりするからけっこう恐い。。。
ゲートオープンの時間になると、それがスタートの合図となり、みんな一斉に全力でダ〜ッシュ!!
目指すは自分の目的地行きバスだ!!!
早い話、エチオピアのバスってのは早い者順が基本のようで、遅い者には外国人だろうと年寄りであろうと座る席はないのだった。
一度だけ事前に予約しようと試みたこともあったが、結局ドライバーから直接チケットを買わなければならない為タイミングが合うはずもなく、それも儚く失敗に終わってしまった。
当然ながら、大きいターミナルには同じようなバスが何十台も停まっている。 自分の乗りたいバスが何処に停まってるかなんて事うちらにはサッパリだし、ただでさえ黒人は足が速いのに対し、うちらは20kg以上のバックパックを背負っているというハンデまであるからもう大変だ。。。
さらに、運よくこの席取り合戦に勝ったとしても、次には荷物代の交渉という面倒な仕事が控えている。
エチオピアのバスは、普通ならついてる荷物を入れるスペースなんてものは皆無で、うちらのような大きいバックパックを持ってる人は、別料金を払って屋根の上に積んでもらわないとならないのだ。
まだ暗いうちから並び、やっとの思いで確保したバスの席。何が何でもそのバスに乗りたいと思うのは誰だって同じだろう、、、
その弱みにつけこんでくる性悪なドライバーもたまにいたりして、交渉は思いのほか難航するときがある。
一度、バックパック一つに対し、シートの倍近い額を請求されたことがあったので、”高すぎる!!”と抗議したところ”だったら乗らなくて良い!!!”とあっさり返されてしまった事がある。
その時はこっちも負けじと「そんなに払えるか!!」と時間ギリギリまで粘ったが、最終的に本気で置いてかれそうになったので泣く泣く払ったうえに、荷物は自分で屋根に上げさせられた、という仕打ちを食らったことがある、、、
しかも、荷物には決まった額が定められているわけじゃないようで、人によって値段が違ってたり、中には払わないで済んじゃってる人もいたりするから確かな所はよく分からない。
こんなふざけたバス、、、とてもじゃないけど乗る気しないのがマトモな人の神経だろう。。。
だからといって「何でこんな国来ちゃったんだ???」と後悔したところでもうあとの祭り、、、
すでに交通手段に選択の余地なんてものはない。。。
中途半端に進んでしまったが為に、同じ思いして戻る事を考えると「先に進む」という選択肢しか残されてないうちらだったのだ、、、
ここは現代の常識なんてモンは一切役に立たないエチオピア、、、
Ohhh!!、、、アンビリバボ〜エチオピア!!!
January 08, 2008
エチオピアの食事情
エチオピアを代表する食べ物と言えば、誰が何と言おうとまずこの「インジェラ」が筆頭にあげられるだろう。
この食べ物については、これまでエチオピアに行った事のある人から、散々”マズイ”だの”ヤバイ”だのと聞かされていた、、、
人によっては「見た目はぞうきん味はゲロ。。。」 なんて表現をしちゃうほど、それはそれはマズイ食い物だという・・。
しかし、そこまで言われると、うちらとしては「どれだけマズイんだろう、、?」という怖いモノ見たさもあり、密かにこの噂の料理を食べれる日を心待ちにしてしまってたのだった。。。
エチオピアに入り、うちらにもいよいよその時がやってきたのだったが、これがいざ実際食べてみると、、、
「あれっ!?案外ふつう。。。」
でも、人間の先入観っていうのはホント不思議なもんで、、
初めの一回目は「散々マズイって聞いてたわりには全然イケるじゃんっ。。。☆」 という感じで、わりと食べれたんだけど、、
二回目には「皆が言うほどマズくないにしても、だからってウマイもんではないよなぁ・・。」 となり、
三回目以降になってくると「う〜ん、やっぱキツイかも。。。」
といった感じで、初めの先入観によって、食べるたびに味の印象も変化していった不思議な体験なのでした。。。
蒸しパンのようなふわふわの生地をクレープ状に平べったくしたものに、シチューのような煮込みをかけて食べるのだが、その生地に独特の酸味があるので、それが「ゲロ味」と言われるゆえんのようだ。
上にかけるシチューのようなものは店によってマチマチだが、主に牛やマトンが一般的なようで、大抵ドコの店で食べても油っこい、、、
よって、すぐに胸ヤケがしてくるのだが、そこへ追い打ちをかけるように生地の酸味が襲ってくるので、少しでも腹が膨れてくると「ウプッ、、もうギブアップ。。」という状態になるのだった、、、
地元の人が食べてる一人前は、とてもじゃないけど一人では食べきれなかったので、うちらにとっては二人で一人前の量が丁度良かった。
それでも、場所によってはこの「インジェラ」を食べれるだけまだマシで、田舎へ行くと食事が出来るレストランが極端に少なくなり、このインジェラを探すのでさえ一苦労というトコも中にはあった。
その逆に、首都アジスアベバではイタリアンのレストランが意外にも多く、そこそこまともなピザやスパゲッティー、果てはラザーニャなんてものも食べることができた。
インジェラに比べるとかなり割高なのだが、それでも地元の人には結構ウケてるようで、食事時ともなると店内は若者やカップルで賑わっている姿をよく目にした。
それと、エチオピアといえば忘れちゃいけない「コーヒー」も有名で、これはお世辞抜きにホントに美味しかった☆
なんと、エチオピアではカフェと名のつく所なら大抵どこにでも、立派なエスプレッソマシーンが置いてあったのだ。
アフリカの中でも、唯一植民地化を免れたエチオピアといわれてるのだが、その昔イタリアが少しの間占領してた時期があったらしく、コーヒー文化はその時のイタリアの置き土産らしい。。。
うちらは特にマキアートとカプチーノがお気に入りで、どちらも1杯30円ぐらいで飲んでいたと思う。自分は朝一にコレを飲んでから優雅な気持ちで出掛けるのが好きだった。
コーヒー以外にも、フルーツジュースが地元の人によく飲まれている。定番のマンゴーやオレンジ以外にも、変わったところでは「アボガドジュース」なんてモノも飲まれていた。
あるカフェでは結構な勢いで注文されてたので、うちらも試しに頼んでみたのだが、何てことはないまんまアボガドの味。。。
これは他のジュースと混ぜるとか、いっそ健康の為を想って一気するでもしないとちょっとツライ味だった×××
他にはパン類にケーキ、ホテルのレストランなどでは生野菜サラダやチャーハン、インドカレーなんてものまで食べられるトコもあったりして、これにはかなり驚かされた。
とにかく、エチオピアというとどうしても「貧しい国」というイメージがつきまといがちだったが、意外や意外にもお金さえだせば想像してたよりもずっとバリエーション豊かでまともなモノを飲み食い出来る国でした。。。
January 06, 2008
エチオピア流の歓迎とは
その日、両替をする為に町を歩いてた所、ホテルの場所を教えてくれた地元の連中とバッタリ出くわした。そこには偶然にも、昨晩バーで意気投合したラスタマンも一緒だった。
普段はバーなんて高くてあまり行かないのだが、エチオピアでは生ビールが一杯30円で飲めるという話を聞いていたので、昨晩さっそく飲みに行ったトコだったのだ。
だけど、そこで出てきたビールは期待とは裏腹、イマイチ炭酸が弱いうえに味も薄いときてて、単純に安いからと喜べるような代物ではなかったが。。。
その時のバーで知り合ったラスタマンと、ホテルを教えてくれた連中が友達だったことに驚きつつ、話の流れから、この辺でドル両替出来るトコが無いかを尋ねた。
すると「今日ハクリスマスデ銀行ハ全部休ミダ!ケド、俺ラノ知ッテル”ブラックマーケット”ダッタラ銀行ヨリレートガ良イ!丁度、今カラクリスマスノセレブレーション行クトコロダカラ、両替ツイデニ一緒ニ行コウゼ!」と誘われたのだった。
ちょうどうちらが居た1月6日〜7日は、偶然にもエチオピア歴でいうミレニアム(2000年)のクリスマスにあたる時期だったようで、町中のテンションも日増しに上がってるのが見てとれるほどの盛り上がりだった。
面白いことにエチオピアは独自の暦を持っていて、西暦以外でも普段うちらの使ってる時間とは別の「エチオピアンタイム」なる時間も持っているのだ。
うちらとしてはそのクリスマスイベントもさることながら、地元の同世代の人間とコミュニケーションがとれる願ってもない機会だと思い、その誘いには喜んで乗ることにした。
互いの国の事などについてお喋りしながら、和気あいあいとした雰囲気で向かったのだったが、 40分ほど歩いた末にたどり着いた”ブラックマーケット”とやらは一見、というか実際に、、、全く何の変哲もないただの土産物屋だった。
さらに、そこのレートが思いのほか悪かったため、仲間の一人が「2件目行くぞ!!」という感じの目配せを送ってきた。
それじゃあ、、と店を出るとその店のすぐ隣りが2件目だった。。。
結局、隣の2件目もたいしてレートは良くはなかったのだが、とりあえず少額だったのでそこで両替を済ませることにした。
クリスマスのイベント会場へは、そっから歩いてすぐとのことだったので、さらに歩き続けた。
すると、彼らは一軒の民家のような所へおもむろに入っていったのだった。
用事でもあるのかと思い、うちらは外で待ってようとしたのだが、「ここは友達の家だから問題ない、中へ入れ」と促された。
通された部屋は、隅に大きいテーブルとソファーが置いてあるだけだが、この国の経済状況を考えると随分立派だ。
「座ッテ少シ休ンデコウ」という感じで言われたので、ひとまずソファに座ることに。
「ナニカ飲ミ物ハ?」と声を掛けられたが「うちらは別に何もいらない」と答えた。
すると、ラスタマンは「俺ハ喉ガ乾イタカラ何カ飲ミタイナ〜」と、何故かこちらにねだるような素振りで言ってきたので、念のため「飲みたかったら”自分”でどうぞ」と強調して返した。
そうこうしてるうちに、奥の部屋から妙にセクシーな格好をした黒人のお姉ちゃん達が4人ほど現れ、自己紹介とともに一人ずつうちらに握手を求めてきた。
初めは友達か家族とでも思ったが、挨拶が終わるや否や、突如はじまった手拍子に歌を合わせ、そのお姉ちゃん達は踊りだしたのだった。。
しかも、うちらの目の前わずか数十cmという近さで・・。
この不可解な行動に対し、まずゆりが真っ先に反応した。
「トシくん、コレ絶対おかしいって!!」と、必死に訴える。
個人的には「イヤ、こいつらはきっと悪い奴じゃない、、、」と思いたかったが、冷静に考えると、この目の前数十cmの所で起こってる現実ってのはやっぱりおかしかった。。。
その直後「お前らのしたい事は理解出来ないからもう帰るぞ!!」とだけ言い残し、二人でサッサと家を出た。
すると、その3人はすぐさまうちらを追いかけてきて「ヘイ友達、一体ドウシタンダ?」と怪訝な表情を浮かべている。
「どうしたもクソもあるかっ!!クリスマスのイベントに行く話だっただろ!?これは一体どういうつもりだ!?」と聞き返すと、、、
ラスタが「俺達ハ朝カラ何モ食ベテナイシ何モ飲ンデナインダ、ダカラ何カ奢ッテクレ・・」というような図々しいことを言い出した。
これにはイラっときて「俺らだって朝から何も食べて無いし何も飲んでないから同じなの。腹が減ったなら自分で何か食べてください!」とつき返す。
すると、これまでの愛想の良かった態度が一変し、、、
「両替所ダッテ案内シテヤッタダロ!俺タチハガイドダ!コレハビジネスナンダ!紹介料ヲ払エ!!」 なんて事をぬかし出したのだ。
それに対しては「ビジネスなんて初めに言ってないから知らないし、、仮にこれがビジネスだったんなら最初から頼んでないし、、両替だってお前らが居なくても自分で簡単に出来たよ、、」と並べあげると、あげくの果てにこのおバカさんは、、、
「オマエ、俺トファイトシタイノカ??俺ハラスタヲ2人モ殺シテルンダゾ!!」と、唇をプルプル震わせながら凄んできたのだった。。。
(っていうか、仲間殺しちゃダメじゃん・・!?)
とツッコんでやりたい衝動は抑えつつ、念のため万が一も考えて、あまり煽るようなこともせずにしばらく口論が続いた。
で、しまいには何を言っても 「ギブミーマネー!!アイウォントマネー!!!」 としか言わなくなってしまったので、もうこれ以上こんなおバカさんを相手にしても仕方がないと、完全にシカトしてとにかく歩き続けた。
その後もしばらくダラダラ後を付けてきたのだが、適当にバスに乗るフリなどをしてたらそのうち諦めたのだった。。。
そのうちの一人はムスリム、もう一人は愛と平和を語った偽善ラスタ、最後の一人は坊主頭のスネオ君。
三人共いたってまともな身なりをしており、どう考えても食べるのに困るほど貧しい連中ではない事ぐらい明白だった。
これは後日、情報ノートを見て分かったことだが、彼らに騙された日本人は他にも結構いるようで、あの家(一応キャバクラのようなトコらしいが、、)で何か飲もうものなら、最後には莫大な額を請求され、払えないと言うとうちらの時と同じような脅しをかけてきたあげく有り金を持ってかれる、という内容の被害報告がそこにはしっかりと書かれていたのだった・・。
こいつらは、うちらが今まで1年以上旅した中でも間違いなくNo.1におバカな奴らとしてランキングされるだろう。
でもその前に、そんな奴らを見抜けなかった自分につくづく反省デス。。。
特に、昨晩バーで知り合ったラスタマンに関してはショックが大きい、、
あれだけ真剣に向き合ってしまった自分のほうがバカみたいに思えてくるし、 酒の場とはいえ「おまえは良い奴だ!!」なんて真顔で言っちゃった自分が、今となっては恥ずかしいやら情けないやら。。。
これはアフリカに入ってまだ3日目の出来事、、、
試合開始のゴングと同時に、いきなり先制パンチを食らってしまった。。。
ま〜お陰でエチオピアの事を色々聞けたわけだし、実際奴らといた時間も楽しくなかったと言ったら嘘になるし、、
ちょっと手荒いけど、これがエチオピア流の歓迎スタイルとでも思えば良いかな・・・(ちょっと前向き過ぎ?)
ハイ、、、でもこれに懲りてもう簡単には知らない人について行くのは止めます。。。(反省)
January 04, 2008
本格的にアフリカへ
半年遅れでようやくアフリカの記事アップします。。。
深夜にイエメンを飛び立った飛行機は、まだ夜も明けぬ頃エチオピアの首都にあるアジスアベバ空港へと降り立った。
寝不足で眠い目を擦りながら入国手続きを済ませたのだが、それから空港内にある銀行が開くまでの間、約4時間近くも時間をつぶさなくてはならなかった。
事前情報によると、この国は空港はおろか街中にも殆どATMが存在しないらしいからだ・・。
暑いイメージのあるアフリカだが、ここアジスアベバは2300mという高地にあるため、この時間帯は想像以上に冷え込む、、、
けれど周りを見渡してみれば、ココはもうれっきとしたアフリカ社会なんだということに気付かされる。
とうぜんながら、待ってるあいだ周囲を行き交うのは黒人の姿しかない。
にしても、、、、、
『この国じゃエスカレーターってやつがそんなに珍しいのかい・・!?』
子供だけならまだしも、いい歳した大人までがさっきから昇ったり降りたりを繰り返している。。。
午前9時になりようやく銀行の窓口が開き、無事エチオピアの通貨をゲットしたうちらは、そんな光景に一抹の不安を覚えつつ空港を後にした。
空港から市街へは、ローカルの乗り合いワゴンで向かったのだが、乗り場付近はボロボロの服をまとった物乞いやら物売りやらが引っ切り無しにまとわりついてきて、まるでインドを彷彿とさせる。
それらを振り払いながらもなんとか中心街にたどり着くと、次に襲ってきたのはあまりの人口密度と黒い群れ、、、
基本的な治安の悪さに加え、日本人に馴染みの無いアフリカ人の顔っていうのは、失礼な話だがそれだけでコワイ・・・。
それが人混みともなると、そこをかき分けて中へ入っていくのには結構な勇気が必要だった、、、
そんな中を警戒心120%で宿を探し歩いてると、馴れ馴れしい英語で近寄ってくる連中が現れた。
どうせチップ目当ての地元の若者だろうと思ったが、彼らは単にホテルの場所を教えてくれただけで、思いのほかすんなりとその場は去っていった。
『あれっエチオピア人ってひょっとして親切、、、!?』なんて思いながらも、ガイドブックを頼りに他の宿も回り、中でも値段の割りに一番マシかな?と思われる部屋に荷をおろした。
しかし、そこが飲み屋に併設された『売春宿』ということに、後から気付いたのだった、、、
不釣合いなドレスで着飾った巨漢のオバチャンが、自分より二回りは小柄であろうオッチャンと、飲み屋から部屋へ寄り添いながら消えてく姿を目撃してしまった、、、
さらにその飲み屋からも、深夜まで“ズンドコッズンドコッ♪”というエチオピアンポップス独特の奇怪なリズムが鳴り響き、安眠には到底ほど遠い環境×××
しかし、エチオピアで安宿となると、嫌でもこの『ブンナベット』といわれている飲み屋併設タイプの連れ込み宿が避けられないようだ・・。
とはいっても、これはなかなかどうして今までには無かったハードコアな環境、、、
それでも、怒涛のように押し寄せてきた刺激と緊張からくる疲労のせいで、いつの間にか深い眠りにと落ちていったエチオピア初日の晩だった。。。
インドの時もそうだったけど、とにかく全くの未知の世界での初日というものは、不安と期待が入りまじった何ともいえない状態になるものなんです、、、
January 03, 2008
世界最古の摩天楼
この「サナア」という町は2500年以上もの歴史があり、現存する町としては世界最古といわれ、旧市街は世界遺産にも指定されている。
海抜2300mの高地にあるため、日差しは強くても空気は乾燥していてカラっと爽やか過ごしやすい。
旧市街の家々は同系のデザインで統一されていて、石と日干しレンガで造られた家々の窓は白い漆喰にステンドグラスのような飾りが付けられていて、まるでお菓子の家のよう、、その雰囲気はそのまま映画に使えそうなほどメルヘンチックだ。
イエメンの男達は特徴的で、まずこれまでのイスラム諸国に比べ、寡黙でシャイな印象を受ける。頭にはターバンのような布をグルっと巻き、腰には映画アラジンに出てきそうな「ジャンビーヤ」という短剣をさしている。
この国ではこのジャンビーヤこそが誇り高き戦士の象徴とされており、同時に勇気ある一人前の「男」の証しでもある。由緒正しい家柄に代々伝わるようなものともなれば、100年以上の年代物もあり、日本円にして数千万円という代物も珍しくないそうだ。
そのジャンビーアを腰にさし、意気揚々と町を闊歩するイエメン男達の姿に、同じ男として何処かハートをくすぐられる思いがしたのだった、、、
うってかわって女性はというと、イスラム圏の中でも宗教色が強い国ゆえ、黒い布を頭からスッポリ覆い、ほぼ全身を隠している。この姿は慣れないとちょっと不気味なのだが、慣れてしまえば何てことはない。。。
他には、イエメン人にはたしなみとして『カート』という葉っぱを噛む習慣がある。これはパッと見普通の葉っぱなのだが、生で噛み下すと出てくるエキスに軽い興奮作用を起こす成分が含まれているそうだ。
イエメン人はこのカートが大好きで、それは午前中のカートマーケットの賑わいや午後の街中を歩いている男の人の頬を見れば一目瞭然。まるで『こぶとり爺さん』のようにほっぺを膨らました人をいたるところで見かけることができた。
カートはイエメンの社交とくつろぎの場には欠かせない道具だそうで、「カートなしでは何事も進まない」とまで言われており、縁談の取り結びや土地の売買、果ては重要な政治決定もなされると言われてるほどらしい。。。
これもかつては男性だけのものだったのが、最近では女性でも噛む人が出てくるようになったそうだ。
(写真左)は『カート場』といわれるカートを噛んでお喋りする目的の為に存在する喫茶店のような空間。各々が思い思いに仕入れてきたカートをここでお茶などと一緒に味わうのがイエメン男の日課になっている。カートを噛み始めるのは基本的に午後からとのこと。
(写真)たまたま出くわした結婚パレードの様子。
イエメンではサナア以外の町へ行くには、いちいちパーミッション(許可書)が必要なエリアが多いので、うちらは特に動き回ることはせず、サナアでの日常をじっくり味わうような形にしました。。。
新年の挨拶はイエメンより
新年明けましておめでとうございます!!!
皆さんお正月は如何お過ごしでしょうか??? 僕らは今、イエメンという国の首都サナアという町にいます。
大抵どこの国でもめでたいはずの年越しですが、この国はイスラム色が強いせいか、、はたまた単にヤル気が無いだけなのか、、せっかくの節目を祝おうとする気配すら全く感じさせないまま、寂しい元旦を迎える事となりました。。。
まぁ町自体はそんなツレナイ雰囲気でしたが、うちらは最近ずっと一緒だった、なおき君、みくちゃんカップルと一緒に「年越しうどん」を打ち、宿の部屋でうちらなりに年越しを祝いました☆
それにしても、僕らが日本を発ってから早いものでもう1年が過ぎてしまったようです。 悪戦苦闘しながらも何とか二人で力を合わせやってきた結果、これといった大きな災難もなく、順調に「1年」も旅を続けてこれたのが、正直自分達にも信じ難い結果です。
改めて振り返ってみると、それはそれは様々な経験が凝縮された1年でした。今まで感じていた「1年」という時の流れが、まるでデタラメに感じてしまうくらい、密度の濃い一瞬一瞬が積み重なってきたようにも思えます。
ドラマチックだった中東エリアの旅も、ここイエメンを最後に終わります。今日深夜の飛行機でエチオピアに飛ぶので、明日からはもう本格的なアフリカです。きっと周りは真っ黒な人ばっかりのハズです。。
1年経ったからといって依然気は抜けないままですが、今年も去年以上に、より密度の濃い瞬間を積み重ねていけたらと願っています。
それと同時に、僕らのこの経験は決して自分達だけの力で成し得たモノではない、という事だけは常に心して、引き続き旅を続けていきたいと思います。
それでは皆さん、、、
今年もどうぞよろしくお願いします!!!
December 25, 2007
クリスマ スin カイロ
今年のクリスマスはエジプトで迎えることになった。当日はカイロの日本人宿に、日本人旅人が大集合。 飾り付けやケーキまで用意しての盛大なパーティーだ☆
日本に居たってわざわざ集まってまで祝うのは珍しいのに、まさかこんな遠い異国でこの人数でクリスマスを祝うことになるとは思いもしなかった。
さらに、キリスト教の祭事であるクリスマスはイスラムの人達には関係ないだろうと思ってたけど、実際はエジプトの人達も日本人と同じように、一つのイベントとしてのクリスマスをちゃっかり楽しんじゃってる様子だった。
この時期のカイロは毎日が賑やか。 街を行き交う人通りは深夜まで絶えないし、それに合わせ商店やレストランなども毎日夜遅くまで営業している。
こっちの人はイスラム教の戒律で殆ど酒が飲めない替わりに、特に映画が娯楽の王様となってるようだ。
カイロにはいくつか映画館があるのだが、夜になると必ず映画館の前に大規模な人だかりが出来ていて、特にチケット売り場の前は、暴動が起きてるんじゃないかと見まがうほどの異常な白熱ぶりを見せていた。
カイロでクリスマスを祝った2日後にはエジプトを発つことになってたのだが、うちらにとってエジプトはかなり思い出深い国の一つになった。
山あり、、川あり、、海あり、、砂漠あり、、遺跡あり、、気球あり、、ダンスあり、、酒は高いが、メシは美味いしフルーツも豊富、、、、、
それに、ここまでそろっておきながら物価もダントツに安いときてる☆☆☆
唯一、ボッタクリ傾向が強いという点だけは否めないが、基本的には治安も良いし人も良いってんだから、こんな旅するのに好都合の国ってのも、そうあるもんじゃないだろう。
加えて、幸運にもたくさんの良い仲間に恵まれたお陰で、エジプトの魅力を120%味わうことが出来たのでした。。。(あ〜楽しかった♪)
December 22, 2007
エジプトの遺跡群
■アブ・シンベル神殿(アスワン)
アスワンの南280km、ナセル湖のほとりにある。スーダンとの国境まであとわずか、エジプト最南端の見所。この神殿は、アスワンハイダム建設時に水没の運命にさらされたが、ユネスコが国際キャンペーンにより救済したという経緯がある。大小二つの神殿をブロックに切断する方法で、もとの位置より60m上にそっくり移動することに成功したようだ。今から約3300年前に自己顕示欲の象徴としてラメセス二世が造らせた自分自身の巨像。
レアなスフィンクスの後ろ姿。正面からのショットは数あれど、この後ろ姿は結構レアなんじゃ・・!?正面からの威厳に比べ、後ろ姿はまったくのスキだらけ。しかもその眼差しの先にあるものは、紛れも無く「ケンタッキーフライドチキン」だったのだ。(※昔トリビアの泉で紹介されてた。)鼻はアラブ人に削られ、あごひげはイギリスに取られたそうだが、そのひげは現在大英博物館にあり、エジプト政府は今も返還交渉中との事です・・(苦笑)
教科書や歴史書には、あたかもこれらの謎の全てが既に解明済みであるかのように書かれているが、そこに書かれているのはあくまで一つの仮説に過ぎず、確かなことは実は何も分かっていないのが実状。スフィンクスの後方に鎮座するピラミッドはどれも実際目の当たりにすると、まずその大きさに圧倒させられるのだが、他にも市街地からの意外な近さに驚かされる。別料金を払えば内部にも入ることが出来るので試しにカフラー王のピラミッドに入ってみた。急な傾斜の狭い通路をキツイ中腰状態でしばらく進むと、突如その空間は現れる。その空間には特に何があるってわけでもないのだが、そこでしばしの間、この建築の存在意義などに思いを馳せていると、まるでそこに込められた当時の人々の想いが、何千年経った今でも色褪せることなく、何かを訴えかけてきているような不思議な感覚に捕らわれた。
※ラクダ乗り ピラミッド周辺にたむろしているラクダ乗りのガイドは悪評高いというのは既に承知の事実だが、ラクダに乗って巡回してるポリスでさえ、写真を撮ったあかつきにはもれなく『ギブミーマネー』と言ってくる始末なのだった。。。
新王国時代になると、ファラオ(王)たちは盗掘者の手から逃れるために、「王家の谷」と呼ばれる奥深谷に、死後の安住の地を次々と求めていった。しかし、金銀財宝を狙う盗賊の手から逃れることは出来ず、ほとんどの王墓が略奪の憂き目に遭った。その中で唯一残されたのが、かのツタンカーメン王の墓。その墓から発見された多くの副葬品は輝くばかりで、エジプト考古学博物館の2階の間の半分を占めているほど。
ここは97年11月反政府ゲリラによる銃乱射事件の起きたところ。日本人観光客 も大惨事に巻き込まれたようだ。
December 20, 2007
気球初体験
ナイル川下りを堪能した後は「ルクソール」へと移動。
ここで俺は生まれて初めて”気球”というものに乗った、、、
(ゆりは子供の時に一度だけ乗ったことあるようだけど・・)
今までの旅中にも気球が乗れる場所ってのは結構あったんだけど、いずれにしてもうちらのような旅行者が気軽には手を出せない高嶺のアクティビティーだった。
だが、驚いたことにココで聞いた気球の価格は日本円にしてたったの5000円。これは気球の値段にしてはちょっと信じられないくらいの破格だった。
当然こんなチャンスを逃すハズもなく、即答でOKしその場でお金まで払ってしまったうちら。。
「でも、5000円の気球って機材の安全性とか本当に大丈夫なんだろ〜か???」
申し込んだ後で、こんな単純な不安が頭をよぎった、、、
当日は上空から日の出を見るというスケジュールの為、宿を出たのは真夜中。専用バスと船を乗り継いで、離陸ポイントまで向かった。
東の空が微かに明るみを帯びてきた頃、うちらを乗せた車はバーナーの炎だけが点々と光る広い原っぱに到着。ガスの強い炎に照らされたバルーンは、まるで巨大な電球のように闇夜の中で煌々と浮かびあがっていた。
それにしても、間近で見る気球ってのは想像以上にデカイ。。
ガスバーナーで暖められた空気がバルーン内に充満し、パンパンになった気球が完全に自立を始めた段階で、うちらは客室兼操縦室にあたるカゴで出来た箱に乗り込んだ。
操縦士のおっちゃんがガスバーナーのコックを数回ひねる。
「ボォ〜ッ、ボォ〜ッ」という炎が燃え盛る音が、日の出前のぴんと張り詰めた空気に轟く。
そして、突如フワッという感覚とともにカゴが浮上。
「おぉ〜〜浮いた、、、!!!」という歓声があがり、機体はみるみる上昇を始めた。
しばらく上昇を続け、ある程度の高度に達したところでいよいよお待ちかねの朝日が地平線から顔を覗かせた。
どうにか間に合ったようだ!!
気球の上から見る朝日ってのもまた、いつもとは違った趣で格別です。。。
太陽の出現に伴い、それまで白いモヤに包まれていたルクソールの全景がうっすらと姿をあらわし始めた。
朝日の深紅に照らされた王家の谷、、、
モスクから流れるアザーンの音色、、、
庭先で朝げの火をおこす親子の姿、、、
こちらの存在に気づき一心不乱に手を振る子供、、、
空の上から見たルクソールの表情は、そのどれもが幻想的で美しかった。
乗ってみて分かったのだが、気球ってのは飛行機やヘリコプターのように喧しい音が出ないから乗り心地がとても良い。耳をすませば風の音が聞こえるほど。
さらに、気球自体が複雑な機械に頼ってないせいか、恐怖心といったものも不思議とそれほど沸かなかった。
やや心配だった着陸も、トラックの荷台に乗ったスタッフが着陸地点まで追いかけてきて、しっかりサポートしてくれてたので何ら問題はナシ。
飛行時間にしてざっと40分前後。この楽しい空中散歩はあっという間に終わってしまったが、空を飛んだ醍醐味は十分に感じられた。
さらに驚いたことに離陸後は、飛行の成功を祝う儀式?とでもいうような、奇妙な踊り(左写真)に加え、飛行認定証&オリジナルのTシャツまでが用意されていたのだった。
こんな調子で終わった初めての気球体験は
「ちょっと値段が安すぎるんじゃないか、、」
という心配をよそに、フタを開けてみれば大々満足な結果で終わることが出来たのでした。。。
December 16, 2007
ナイル川下り
砂漠を後にしたうちらは、ルクソールから南に200km行った所にある、教科書にも出てる「アスワンハイダム」があるアスワンへ電車で向かった。
(写真左)アスワン駅の様子。
(写真右)アスワンの町をバックパック背負ってホテル探し。
そこで、フルーカに乗ってナイル川を下りルクソールまで行けるという移動手段の存在を知った。このフルーカというのは、風の力だけで走るエジプト版ヨットのことだ。
しかし、移動手段としてというよりは「ナイル川下り」という響きに、どちらかと言うと魅了されてしまったうちらだった。
こんな流れで、砂漠ツアーの仲間に加え新たにメンバーも募り、計6人でフルーカ1隻を貸しきって2泊3日のナイル川下りを実施したのだった。
(写真左)出発前の準備風景。ヨットといっても客室なんていう贅沢なモノはない。
(写真右)川の上は思いのほか寒く、ほとんどの時間は寝袋に包まってた。
このフルーカという船は、特にエンジンが付いてるワケではないので、それほどスピードが出るわけでもない。
よって景色もあまり変わり栄えしないので、 次第ににすることもなくなりボケ〜ッと景色を眺めるか読書をするか。。。
けれど途中、要所要所で船を陸につけて食事の準備をする時間がある。
その時ばかりは、待ってましたと言わんばかりに船を飛び降り、子供に戻ったようなワウワク気分で近場の村へと探検しに行ったのだった。
(写真上)ヌビア人羊飼いの少年達に遭遇。ヌビア人の肌の色は一般的なエジプト人(アラブ人)に比べより黒く、頭髪も黒くちぢれている。彼らはかつて、この一帯を支配していた黒人の末裔らしいのだ。
(写真上左)勝手にお宅訪問。予期せぬ珍客に一家揃って大喜び。それにしてもお父ちゃんシブイ・・。
(写真上右)子供達の顔の周りにはハエがブンブン。。。
(写真下左)ヌビア村にある一般的な家の内部。ボブのポスターが唯一のインテリアだった。
(写真下右)船員が用意してくれてた食事だけど、2日目にはパンはカチカチに。。。
(写真左)水牛の様子を見てるヌビア人のお爺ちゃんをパシャリ!この後、バクシーシ(喜捨)と、手を前にまんべんの笑み。。。
(写真右)ナイル川対岸に沈む夕日。まるで鏡のように澄んだ水面の反射が印象的だった。
実は、アスワンからルクソールにかけてのナイル川流域は、あまり国内の情勢が良ろしくないようで外国人は観光を禁止されてるエリアだった。
そんな事情もあってか、訪れた村の人達はまったく観光客ズレしてなく、逆にうちらにしては今までとは違った新鮮な感覚でコミュニケーションが取れたのでした。。。
December 14, 2007
ニホンジン大集合!!!
ダハブでのゆる〜い骨休めが済んだあとは、エジプトの首都「カイロ」へと移動した。
(写真左)近代的な高層ビルが立ち並ぶカイロ市内。
(写真右)町の様子を写真に撮っていたら”撮ってくれ”と近寄ってきた親子。
ここカイロで、一緒に砂漠へ行くメンバーを募ったのだが、これが集まった集まった・・。
最終的に膨らんだメンバーの数は、なんと14人。しかも全員日本人。我ながらよくこれだけの日本人が時同じくしてカイロに集まったもんだなぁと感心してしまうほどだ、、
メンバー内には顔見知りも多い。主にシリアやレバノン、イスラエルで会った中東南下組がここカイロにこぞって集結していたのだった。
それにしてもこんな人数で移動するのもツアー行くのも初めて。みんなで移動してる時なんて、ハタから見るとちょっとした団体ツアーの御一行様みたいになってるし、かなり目立っていた。。
拠点となる町から砂漠へは、直接ガイドと交渉しジープ2台をチャーターして向かうことになった。
(写真左)白砂漠では雨風によって長い年月かけて侵食したこんな不思議な形をした奇岩がいくつも点在している。中にはウサギやトリなんかに似てるカワイイものもある。
(写真右)いっぽう黒砂漠ではマグマの噴火跡のような盛り上がりが無数に広がっており、創世記からほとんど変わってないんじゃないかと思わせる原始的風景が続く。
「クリスタルマウンテン」といわれるクリスタルの結晶が剥き出しになっている丘。ここでは初めて自然の状態のままのクリスタルに触れ、そのパワーを肌で感じた、、、というよりは単に採集に没頭してるだけカナ。。
火をおこしたらついたて立てて、じゅうたん敷いたらちゃぶ台をセット。その上にみかんとティッシュを置いてあげたらほら、こんな立派な食卓が完成☆
出来上がったこの空間は異国の砂漠にもかかわらず、どことなく日本の食卓に似た趣を醸し出していた。
その食卓を14人で囲み、同じ飯をみんなで食べたあとは各々思い思いに酒を酌み交わした。そこにガイドの演奏も加わり、いつの間にやら呑めや踊れやの宴が繰り広げられていた。
(写真左)夕食時間。ビール、お酒はわざわざカイロから苦労して持ってきた。
(写真右)ガイドの笛に合わせ、エジプトの名物のベリーダンスを踊る。
寒さも厳しくなってきた夜更け、僕らはかすかな焚き火の温もりだけを頼りに毛布に包まった。ここには雨風をしのげる屋根もベッドもトイレもない。そこでの僕らは、ただ頭上に広がる永遠とも思える宇宙を仰ぎつつ、自らも地球の一部だったことを思い出すかのように眠りにつくしかなかった、、、
この一体感は一度味わってしまったら、もう病み付きになること必至。ただ、砂漠の夜は想像以上に寒かったな〜。
さらに今回は、砂漠自体の感動もさることながら、個性溢れる魅力的なメンバーとの出会いに大きな感謝〜!!!
(写真左上)メンバー全員で記念撮影。珍しく女性陣が多かった。
(写真右上)車がパンクした。修理を手伝う男生陣。
(写真左下)果てしなく続く白砂漠のサンセットタイム。
(写真右下)砂漠の真ん中にポツンと佇むまるで絵に描いたようなオアシス。
December 06, 2007
紅海リゾート ダハブ
ヨルダンのアカバからフェリーに乗り紅海を渡ると、そこはもうエジプト。フェリーを降りたトコからバスで少し行った所にダハブという小さな町がある。
ダハブは紅海沿いのビーチリゾートにあたる町で、これまでの中東のイメージからすると、ずいぶん肩の力が抜けた”ゆる〜い”感じの雰囲気が漂っている。
各国から訪れるダイビング目当ての金持ち旅行者の姿も少なくなく、海沿いのメインストリートには中東らしからぬ洒落たレストランやバー、みやげ物屋にダイビングショップなどが軒をつらねている。
このメインストリートを歩いてる限り、自分が中東に居る事さえ忘れそうになるほど。。
肝心な海に関しては、オーストラリアのグレートバリアリーフの記憶もあり、いくらキレイと言われててもあまり期待はしてなかった、、
しかし、紅海はこの予想を見事に裏切ってくれた、、
紅海の透明度は驚くほど高く、豊富な魚とあわせて色とりどりのサンゴ礁が浅瀬からでも十分楽しめたのだ。
さらに数十mほど続くその浅瀬の先には、想像を絶するほど広大な珊瑚の渓谷が広がっていて、そのエリアへ行くには、まるで初めて大空へ飛び立つヒナのような勇気が必要だったぐらいだ。。
他には、ダハブからバスで4時間くらい行った所にある「シナイ山」という山にも登ってきた。
そこは「モーセが神から十戒を授かった山」とされているトコで、うちらは山頂で朝日を眺めたいが為、夜明けの3時間ぐらい前から真っ暗い中を登り始めていた。
一苦労の末ようやく頂に到着すると、まずあまりの寒さに驚かされる、、ダウンまで着こみ完全武装で挑んだってのにまだ寒い・・。
しかしそこで望んだ一夜の夜明けが、自分にとってはどうしたって忘れられないほど印象深い光景の一つとなった。
夜明け間近、そこにある自然全てが一斉に一日の始まりである日の出を受け入れる準備を整えているかのようだった。
そこへ、東の山稜から静かに姿を覗かせた朝日が、目が眩むほど神々しい光りで、視界に映るモノ全てを金色に染め上げたのだった。
これほど完璧と思える金色と、その光りに支配されつくした世界ってヤツを生まれて初めて目にした・・。 気づくと、自分でも何だかよく分からないけど今にも涙がこぼれ落ちそうだ、、
人間こんな光景を実際に目の当たりにすると、たとえモーセでなくったって何か授かりたくなる気分にさせられる。。
とにかく、こんな寒いなかを眠い目擦りながら頑張って来た甲斐があったというものだ、、
うちらがダハブを訪れた11月は、メインシーズンからやや外れていて、日が落ちると少し肌寒くなるような季節だった。
それでも近頃ずっと寒いトコ続きだったせいか、「半袖+短パン」というスタイルに、何よりうちらのテンションはあがっていた。
エジプトに入って物価も一段と安くなった事だし、海もキレイなうえ、念願の”半袖+短パン”ということもあって、ここでは10日間ほどかけてゆ〜っくりと溜まった疲れをほぐしたのでした。。。
November 20, 2007
イスラエルという地
それまで、全く行くつもりなどなかった国「イスラエル」へ行くと決めたのは、かれこれ2カ月ほど前になる。
正確には、”つもりがなかった”のではなく、うちらみたいなパッカーが安易に”入れる国ではない”と思っていた。。
ところが旅先で話を聞くにつれ、面倒ではあるがうちらでも入国は可能だという事、さらに心配してた治安のほうも、危険なエリアさえ行かなければさほど問題ない、という事が明らかになってきた。
ただ、イスラエルの入国審査の厳しさは、旅人の間でもちょっとした語り草になっていた。30分以上も掛かる長い面接では、根ほり葉ほり質問責めを受けたあげく、人によっては「入国拒否スタンプ」を押され帰されてしまったり、通過できたとしても数時間も放置された後だったりと・・。
さらに、イスラエルの「入国スタンプ」というものがこれまた厄介な代物で、イスラエルのスタンプをパスポートに押されてしまうと、なんと大概のイスラム圏の国々では入国を拒否されてしまうのだ。
これは、例え「入国拒否スタンプ」だとしても、押されてしまえば同じ扱いを受けることになる。
「それだと今後も旅を続けるのに困る、、」ということで、入国の際に必ずパスポートではなく別紙へスタンプを押してもらうよう頼まなければならないのだが、イスラエル側もそれを承知のクセに、まれに嫌がらせのようにスタンプを押してしまう検査官もいるとの話だった。
最悪そうなった場合は、いくら泣いてもわめいてもどうにもならないそうで、その時はいさぎよくイスラム圏の旅を諦めるか、もしくはパスポートを盗難・紛失した事にし、日本領事館へ再発行の申請をするしかない。
しかし、パスポートの再発行を海外でするというのは口で言うほど簡単なものでもなく、それなりの時間と労力は覚悟しなければならない一大事だ。
ま〜そんなリスク犯すぐらいならそんな国始めから行かなきゃ良い話なんだけど、それでもなお「イスラエル」という国には僕らを魅きつける「何か」があるのは確かだったのだ、、、
イスラエルの国境へはヨルダンのアンマンからバスを乗り継いで向かった。このアンマンからイスラエルの首都エルサレムに抜けるルートだけが、唯一「スタンプの別紙扱い」が可能とされていた国境だった。
入国するタイミングについても、旅人の間では様々な噂が飛び交っている。
「イミグレにはある程度まとまった人数で行ったほうがいい」だとか、、
「土曜は午前中で閉まっちゃうから平日のほうがいい」だとか、、
「審査官にはあまり英語が出来ないフリをしたほうがいい」だとか、、
そんな中うちらが向かったのは土曜日で、しかもたった2人っきりだった、、、
そんな話を聞いたら誰かと一緒に行きたいのはやまやまだったけど、どうしてもその時タイミングの合う人が見つからなかった。。。
今まで味わった事の無い類いの緊張を噛み締めつつ、イミグレーション(入国管理局)のゲートをくぐる。中では軍服に身を纏った審査官が、カウンター越しの入国者を一人一人丹念に調べあげている。
噂通り審査官はみな若い女性だった、、恐らく20代前半ぐらいなもんだろう。イカつい軍服とまだあどけなさの残る顔が対照的だ。
すぐにうちらの番がまわってきた、、 まずは紙に実家の住所から両親の名前、祖父の名前などの個人情報を書かされ、その後に口頭で、今までに行った国すべてと、その目的を言わされた。今までに行った国の中には、審査の際不利になるといわれているシリアやレバノンも入っている。
他には「イスラエルには何しに来たのか?」や「イスラエルに知り合いはいるのか?」などの質問に、一つ一つ怪しまれないよう丁寧かつ慎重に答えていった。
その中で、結婚しているにもかかわらずお互いの住所が違う事を指摘された。
それに対し「結婚してすぐ旅に出ました」と答えると「ひょっとしてあなた達はハネムーン?」と聞かれたので「そうそう、、ハネムーンですハネムーン!!」と返す。
すると、それまで厳しかった審査官の顔から初めて女性らしい笑みがこぼれた。うちらはその優しい「笑顔」に安堵を覚えるのと同時に、ひそかに勝利までをも期待した、、
その後、1時間半ほど待たされたのち”スタンプが押されてない”パスポートが手元に戻され、うちらの入国は無事許可されたのだった。
イスラエルの首都「エルサレム」の旧市街では、歩いて回れる程の塀に囲まれた敷地に、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の3教徒が共存生活を送っている。エルサレムはこの3教徒、どの信者にとっても掛け替えの無い聖地なのだ。
ムスリムにとって安息日である金曜日、イスラム寺院ではメッカの方角に向かって祈る人々の姿が見られ、かたやユダヤ人は嘆きの壁の前で神殿の再建を願い祈る。また、キリスト教徒はイエスが十字架を背負って磔刑に処せられるために歩いた道、ゴルゴタの丘へ続くヴィア・ドロローサをたどる巡礼を行う。
さらにこの地は、遥か4000年も昔から神の名のもとに、あるいは民族の誇りをかけ、数え切れない戦いの舞台になったという背景がある。
(写真上)「聖墳墓教会」キリストはこの場所で磔の刑に処せられたとされている。各国からおびただしい数のクリスチャンが祈りを捧げに来ている。
(写真左上)ユダヤ教最大の聖地とされている「嘆きの壁」前では、ユダヤ人信者が壁に向かい昼夜問わず熱心に祈りを捧げている。さらにテロ防止の為、壁に通じる通路では、空港のような厳しい手荷物検査が行われている。
(写真右上)金曜日は伝統的な正装を身にまとった信者達が壁の前に大集結し、普段以上の熱狂に包まれる。中には我を忘れて祈り叫び泣く者まで現れ、その空間はある種不気味とも思えるほどの異様な緊迫を帯びる。
(写真上)ベツレヘムにある、キリストが生まれたとされる馬小屋跡に建つ「聖誕教会」
(写真左)キリストがアセンション(昇天)した場所とされているポイント。
(写真上)イエスが泣かれた丘にある教会からエルサレム旧市街を望むと、十字架とイスラムの聖地「岩のドーム」が象徴的に重なり合う。
(写真上)嘆きの壁の向こう側にそびえる金色屋根の建物が、イスラム教徒にとって重要な意味を持つ「岩のドーム」。
この「岩のドーム」は、イスラム教の発端になった預言者ムハンマドが、天使を従え天馬に乗って昇天(アセンション)したといわれている「聖岩」を抱え込むように建っている。 かつてはここにユダヤ教徒の神殿が建っていた。神殿は70年にローマによって破壊されたのだが、神殿を囲んでいた外壁の一部が部分的に残った。それが現在の「嘆きの壁」にあたる部分。
ユダヤ教徒にとっては、その「聖岩」は世界が創造された際の「基礎石」とし世界の中心であるとされ神聖視されている。 残念ながらうちらが行った時は「岩のドーム」に内部には入る事が出来なかった。
夜のエルサレム新市街へも繰り出してみたが、そこにはヨーロッパの都会や東京の繁華街なんかと、なんら変わらない華やかな世界が広がっていた。
(けど、何かがオカシイ・・・・。)
よくよく見てみると、そこで遊んでるのは決まって中学生か高校生ぐらいと思しき若い子達ばかりで、二十歳以上の年代は殆どと言っていいほど見かけないのだ、、
しかも、夜中0時をとっくにまわってるっていうのに皆に帰る気配は全くなく、店だって昼間同様とうぜんのように開いている。
とにかく僕らからすると、このオカシな光景は衝撃だった、、、
(カメラを持ち歩かなかったので写真が無いのが惜しい。。)
この国は徴兵が義務づけられてるので、徴兵に駆り出される前に青春を謳歌しとけ、というトコだろうか、、
イスラエルで定められている徴兵期間は、18歳から男子は3年間、女子は1年9か月その後予備役の義務があり、男性45歳まで、女性????もしくは結婚まで毎年1カ月前後軍務に就かなければならないらしい。
しかし、この兵役を拒否する運動が最近イスラエルの若者たちの間で広がりを見せているそうだが、軍による処罰や一般市民からの非難により卑怯者のレッテルを貼られ、就職することさえ難しくなるとのこと。
これはある本から、そんな状況下に置かれながらもそれに屈しようとしない、あるユダヤ人青年の主張を抜粋してみた。
「イスラエル国家が力ずくで作ることに固執している純粋なユダヤ人国家がどのように我々の安全を強化し、結果どのように愛する人々の役にたつのか理解が出来ない。」という理由から兵役拒否を訴えている「ヤイル・ヒロウ」という18歳の高校生男子。
さらに、うちらが泊まったエルサレム市街にある「ファイサルホテル」は海外からのジャーナリストが集まる宿としても有名で、普通のツーリスト以外にも様々な使命を持った人が泊まっていた。
そこで会った、日本人「反戦活動家」の方が参加したという抗議運動(デモ)の様子を紹介。
このデモはパレスチナ人(アラブ人)がイスラエル国家(ユダヤ人)の不当な搾取に対して行ったもの。
イスラエル兵は催涙弾やゴム弾を使ったライフルでこのようなデモの鎮圧を行うが、それに対し「投石」という原始的な形で抵抗するパレスチナ人(写真左下)
「ゴム弾」といっても人を殺せるほどの殺傷力は十分備わってるそうだ。ゴム弾に打たれ、意識を失ってしまったパレスチナ人。(写真右上)
「聖誕教会」のあるベツレヘムは「パレスチナ人自治区」にある。自治区の周囲は、十メートル近くはあろう高いコンクリートの壁で覆われており、外部とは完全に遮断されている。パレスチナ自治区に出入りするには、地元の人(パレスチナ人)でも許可書が必要で、中には一方的に壁を建てられてしまった為に、家族や親戚に会いに行くだけでもいちいち厳重なIDチェックと荷物検査を受けなければ会えなくなってしまった人もいるとの事。
この他にも、ファイサルホテルにはイスラエルの現状を伝える様々な本や資料が置いてあったので、自分もそこに居るあいだは出来る限りそれらに目を通した。
どうやら、イスラエルには「パレスチナ問題」という最大の課題が残されているようだ。それについて、ユダヤ人、パレスチナ人、双方の意見を本から抜粋してみた。
「ユダヤ教こそが真の行き方を教えていて、全ての人が聖書の教えを守っていたらテロは起きなかった」と主張するユダヤ教正統派の神学生16歳。
「今の紛争はユダヤ人が統一しなければ終わらない。全ての世界とアラブ人はユダヤ民族に属し、ユダヤ人が支配する。」と答えたユダヤ教徒17歳の高校生女子。
「私の爆弾の破片が敵を殺し、自らも死ぬことはどんなに素晴らしいことでしょう。殺人がしたいわけではなくパレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。次の世代のために死ぬのです。神が望むなら不正義は消え、勝利は我々のものになる」
これはエルサレム郊外の住宅地を走る路線バスで自爆テロを起こした、アンナジャフ大でイスラム学を学んでいたムハマド・アルゴウル(22)の遺書。
イスラムでは、敵の侵略に直面した場合、神のために自らを犠牲にして戦う事がジハード(聖戦)として称賛されている。殉職者にはアッラーの祝福と・褒美が約束され、最後の審判を受けずに天国に入るとも言われている。
夢「自爆」、趣味「投石」と答えたパレスチナ人14歳の少年。7歳のころから投石を始めてこれまで25回撃たれた。一度イスラエル軍のジープに引かれたこともある。小学5年生のときバスに火をつけた容疑で逮捕され1カ月刑務所に入った。自白剤の入った水を飲まされ、火をつけて無いにも関わらず、ハイと答えた。どうしてなのかは自分でも分からない。
さらに、アフリカは「エチオピア」の、とある宿に置いてあった情報ノートに書かれてた内容がとても印象深かったので、そのままの形で紹介します。
※情報ノートとは???
旅人による旅人の為の情報交換用ノートの事。そこには旅のつわども達の手によって様々な内容が記されており、旅をより価値あるものにする為の生きた情報が満載されている。日本人利用が多い宿でなら世界中で目にすることが出来るが、基本的に旅人の善意で設置されたものが多い。
ようやく「イスラエル」という「地」を手にいれた(取り戻した?)が、それだけでは飽き足らず、頑なに純粋なユダヤ人国家建設に固執するユダヤ人、、、
数世代前からそこで生活を営んできたにも関わらず、一方的かつ強引なやり方で土地を追われようとしているパレスチナ人、、、
この問題のきっかけになった「三枚舌外交」といわれているイギリス政府の無責任さ、、、
中東の利権を狙ったアメリカからの、過剰なまでのイスラエル(ユダヤ人)に対するバックアップ、、、
間接的ではあるが、その片棒を担いでいる日本の政治家とそこ注がれる国民の血税、、、
戦う武器を奪われてもなお、投石や自爆という形で自らの誇りを貫こうとするパレスチナ人、、、
あくまで個人的な見解で言わせてもらうと、、、
ユダヤ人というと、どうしても「アウシュビッツ」での大量虐殺や各地で迫害されきたイメージが強く、今まではどちらかというと被害者的な立場で捉えていた。
しかし、イスラエルで見たユダヤ人は自分達が受けてきた苦悩と同じようなことを、パレスチナ人にしようとしている。 それもイスラエル側にもう少し「共存」していくという姿勢があったなら、少なからず今ほどは血なま臭い状況になってないんじゃないかと思う。
そして、この現実を”知った”僕らは、同じ地球に住む一員として一体何が出来るか、、???
奇しくも「イスラエル」という地は昔からキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の3つの宗教の聖地とされ、今なお多くの人々から崇められている。
だが皮肉にも、そこは国家と民族の欲望が現代的な手法で狡猾に具現化されている地でもあった。それは同時に現在の人類の「在り方」の側面を象徴する現実でもあるのだろう。
とにもかくにも、、、
僕らの眼に映った「イスラエル」とは、そんな地であった、、、
November 19, 2007
ヨルダン
(写真左)ヨルダンの首都アンマンの町並み。数年前までは、ニュース等で頻繁に「アンマン、アンマン」と叫ばれていたが、いざ来てみたら何てことはない、今ではのんびりした平和な町に見える。
(写真右)ムスリム女性が着る普段服。同じイスラム教徒でも、国や地域によってデザインや色などが微妙に違う。ここまで色鮮やかなモノもなかなか珍しいが、頭から手足の先まで全身黒づくめファッションの人も少なくない。
(写真左)中東でよく食べられている「ホモス」という不思議な味のする食べ物。
ゆでてスリ潰したひよこ豆とスパイスのペーストの上にオリーブオイルをかけたもの€で、これをパンやフライドポテトに付けて食べる。
個人的にはそんなに美味いモノでもないと思うのだが、人によっては結構ハマるようだ。。。
遥か大昔の地殻変動により行き場を失った海水が、長い年月をかけて蒸発してきたために、今では塩分濃度が極端に高くなってしまったという湖。
カナヅチでも全く心配いらない浮き輪いらずの湖だけど、だからといっていきなり「キャー♪」とか言って飛び込んだりすると大変なことになるので要注意!!!
(※水がモーレツに目や傷口に染みるので、そのまましばらく固まりマス・・)
しかしそれは、一切の生物をよせつけないといわれる「死の海」を身をもって体感出来る瞬間でもある。。。
海底の泥はミネラル豊富で泥パックにもなるそうで、浜辺では女性のみならず男性までもがせっせと泥を塗りたくってる姿が目についた。ここで採れた塩や泥は「死海グッズ」として製品化されていて、土産屋などで購入可能。
《ペトラ遺跡》
ヨルダンの首都アンマンから約4時間。こ地はながい間外の人間に知られぬよう隠され守られていた秘密の都市。2000年以上前、アラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やベドウィンによって栄えた。
(左写真)のような切り立った岩のあいだを20分ほど歩くと、突如目の前に壮大なスケールの神殿「エル・ハズネ」(写真右)が現れる。ここはかの有名な「インディージョーンズ・最後の聖戦」の舞台となった神殿。幅30m高さ43m、紀元前1世紀〜後2世紀に造られたとされる。
「インディージョーンズ」好きの自分としてはまず外せない遺跡。岩を削って造られた見事な神殿もさることながら、なによりその立地が素晴らしい。長い間人々に隠され守られていた「秘密都市」という部分にも大いに想像力をかきたてられる。見ごたえ十分な遺跡の一つだった。































































































































