2008年02月29日

地球の裏側にあるもう一つの日本

 南アフリカのケープタウンを発った飛行機はヨハネスブルグを経由し、計12時間のフライトを経て、南米はブラジルのサンパウロへと到着した。

 空港に降り立った時にはすでに日が暮れてたので、安全のために空港から市内へはタクシーを使って向かう事に。(ブラジルはけっこう恐い話聞くんで・・)

 サンパウロ市内には「日系人」が経営している宿がいくつかあり、うちらはその中の一つ「ペンション荒木」という宿を訪ねた。

 さらに、その宿の周辺は「日本人街(リベルダージ)」と呼ばれる日系人の居住区になっており、現在もたくさんの日系移民とその子孫達が生活を営んでいるエリアだった。

 辺りを歩くと、日本語の「看板」や「ポスター」「のれん」などがいたる所で目につき、ある道路では「ちょうちん」なんかもデコレーションされていて、そこにはブラジルにも関わらず如何にもな「和」が醸し出されていた。

ブラジル サンパウロブラジル サンパウロ

 

 

 

 


 


 日系の人が営んでる店の店先では、「日本人」のおじちゃんおばちゃん達が、「日本語」で他愛もない話に花を咲かせている。よく観てみると、その手に抱えてる新聞も当然のごとく「日本語」のものだった。

 それはとても懐かしい「日本」そのもので、そんな何気ない光景を眺めているだけで、心の奥底にあった“寂しさ”が優しく癒されるような想いだった、、、

 さらに驚くべき事に、この辺りのスーパーに並ぶ日本食材の豊富さといったらそれはもう・・・。

ブラジル サンパウロブラジル サンパウロ

 

 

 

 



 

ブラジル サンパウロブラジル サンパウロ

 

 

 

 

 



 日本米、日本野菜、醤油、味噌、みりん、鰹節、わかめ、おたふくソース、豆腐、納豆、煮干し、梅干し、漬物、うどん、そば、そうめん、大福、せんべい、カップラーメン、カレールー、ふりかけ、のり、寿司、サンマ、ししゃも、等々、、、、

 恐ろしいほど、ホントーになんでも揃っちゃう。。。

 例えば「ふりかけ」だけで、ゆうに30種類近い品揃えはあった・・。

 (ふりかけって、日本でもこんな種類あったっけ、、!?)

 これには二人とも目を輝かせて大ハシャギ。。。。♪♪♪

 そこで、つい興奮してその品揃えをカメラに収めてたら、、、

 「すいません!!写真は遠慮ねがいます!!!」と、

 店員のおばちゃんに注意されてしまったのだった・・・・・。

(ゴメンナサイ。。。。。。)

 殆どが輸入物だけあって、値段は日本に比べると1〜2割程高いんだけど、「日本の味覚」が恋しくて堪らないうちらは、値段うんぬんの前に「喉から手が出ちゃってた」から仕方がない。。。

 1割だろうが2割だろうが、ココゾとばかりに買い漁っちゃったのは言うまでもないでしょう・・・・・(嬉)

 数日後、うちらは日本人街からは少し離れた所にある「鹿児島会館」へ宿を移した。

 そこは鹿児島の県人会の方々が運営している「海外版県民館」のようなもので、本来は「鹿児島から移民した人達の為に使用されている」建物だが、研修や行事などがない期間は一般の旅行者にも泊まらせてくれるという、うちらのような旅行者には何とも有難い存在だったのだ、しかも格安で。。。

ブラジル サンパウロブラジル サンパウロ

 

 

 

 

 


 敷地内には「プール」や「卓球ルーム」、ロビーには歴代会長さんの顔写真や、熊本らしく「西郷さんの銅像」や戦国時代の「鎧兜」なんてものまで飾ってある、それはずいぶんと立派な建物だった。。。

 ある晩、一緒にそこへ泊まっていた旅行者の「10年夫婦さん」(写真右上)と共に、一件のある飲み屋へ行くことになった。

 その名も「津軽」という飲み屋は、昔ながらの赤ちょうちんを思わせるような雰囲気で、カウンターの中にいる70歳くらいの日系1世のおばちゃんが一人で営んでいる、というこじんまりしたお店だった。

 ここでは「アジの刺し身」やら「ラーメン」やら「焼きそば」なんかを堪能させてもらい、久々の「日本の味」に舌鼓を打たせてもらった。

 夜が更けてくると、狭い店内は何処からともなくやってきた日系の常連客で一杯になった。

 みんな気さくな人ばかりで、一介の旅行者である僕達にも親しみを持って接してくれた。

 酔いがまわり場が盛り上がってくると、自然と懐かしい「カラオケ」なんかも始まった、、、(もちろん日本の歌♪)

 自分も勧められるがまま、久々に「島歌」なんかを歌ってだいぶ気分が良くなっちゃった所で、、、

 うちらがお世話になっている「鹿児島会館」の園田会長さんが登場した。

 お会いするのは初めてだったけど、とても気さくなで、旅人に対しても非常に寛容だった。

 酔った会長さんは僕たちに色々な話をしてくれた。

 移民当時の話やそれからの苦労、そして現在の日系人とブラジル人の関係などについてなど、貴重な生の話を聞かせてもらった。

 そこには戦前のまだ情報が乏しかった時代に、遥か地球の裏側へ未来を託した人々の、切々とした想いを感じ取ることが出来た。

 込み入った歴史については「移民資料博物館」で、少しながら学ばせてもらった。。。

 戦前、まだ日本が今ほど豊かでなかった時代、日本各地に住んでいた貧しい農村の人々が、当時「コーヒー農園」の労働力として移民を受け付けていた南米へと、夢と希望を抱きつつ遥か海を渡っていったそうな。。。

 しかし、実際の生活は思っていたほど楽なものではなく、まずは険しいジャングルの状態から人の手一本で土地を切り開いてく、という気の遠くなるような仕事からその生活は始まったそうだ。。。

 さらには、日本にはなかった“未知の病気”や“ジャングルに潜むどう猛な生物”、さらには“言葉の壁”や“食生活の違い”などにより、その生活は苦難の連続でもあったよう。。。

 だが、そんな困難を乗り越えていく日々の中にも、元来日本人が兼ね備えている「誠実さ」や「我慢強さ」といったような“気質”が、次第に発揮されていったという・・。

 結果的に、その積み重ねの甲斐あって全くの異文化だったブラジルの人達にも、その存在を“認めて”らえるようになったらしいのだ。。。

 最初は農業から始まった仕事も、その農業で得た資金を元手に「農業」から「小売店」、次は「小売店」から「工業」、さらに「工業」から「金融業」などへ、と賢く事業を展開させていったようだ。

 さらに、その子孫である2世、3世は、その勤勉さから、比較的社会的地位が高い職業につくケースが多いらしく、政治家、弁護士、医者、芸術家など、幅広い分野に渡って進出しているそうで、ブラジルに与えた“功績”は計り知れないほどだそう、、、

 他にも、60年代以降多くの日本の企業がブラジルに進出した際に、これらの日系ブラジル人が作り上げた「日本人は勤勉」「日本人は信用出来る」という国民性イメージが“その進出を容易にした”と、高く評価されているとのこと。。。

 しかし、それも70年代以降になると、ブラジルが過度のインフレに見舞われるなどした為、逆に経済成長を遂げていた日本へ出稼ぎに繰り出す、といった「逆輸入」的な逆転現象も起きてしまっているという、、、

 その「出稼ぎ」にしても、見た目には日本人と変わらない日系人だが、実際には「言葉の問題」や「差別」などの壁にぶつかってしまい、中には犯罪に手を染めてしまう者も少なくないとのこと・・。

 「日系人」と言っても、その子孫の2世、3世となってくると日本語が殆ど話せないという人も結構な数いるようなのだ、、、

 ちなみに1908年から始まった移民は今年で100周年にあたるそうで、日本、ブラジルの両国ともに様々な催しが開催されているそうです、、、

 そもそも、、、

 「今までこんなに沢山の日本人がブラジルに移り住んでいた」

 という事すら殆ど知らずにいたのだったが、、、

 自分の無知さを恥じるのと同時に、改めて「日本人」という国民(民族)であれた事を「誇り」に感じてしまってる姿も、少なからずそこにはあった。。。

 当時の「移民」という手段は、きっと単なる「逃避」だったワケじゃなく、あくまでも生活を掛けた「挑戦」だったハズで、その結果が「もう一つの日本の文化」という形で、地球の裏側という条件にも関わらず、厳しくもたくましく育まれ続けていたからだ、、、

 (あのスーパーの豊富な品揃えは、当時の人達の汗と涙の結晶でもあったんだねぇ。。。)

 ということで、ここサンパウロに来てようやく、、、、、


 「地球の裏側には100年前からもう一つの日本が存在していた」


 という事実を知ることになったうちらなのでした・・☆


 (日本バンザ〜イ!!!!!)


 

ブラジル サンパウロ

ブラジル サンパウロ



sekaihokkori at 01:24│Comments(0)TrackBack(0)clip!ブラジル 

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